三つ目の発表は、イシグロ・カズオという日本生まれ、イギリス育ちの作家の語りについてでした。語りの問題に興味がある自分は飛びついたのですが、新作の<i>Never Let Me Go</i>では、self-decetiveなunreliable narratorであることをやめ、別な語り手を採用することにした、という趣旨のイシグロ・カズオのインタビューの引用ぐらいにしか自分は反応ができませんでした。まだまだ感度が低いなぁ…
宮廷での栄達を望むこと久しかったが、国王ジェームズ1世の強いすすめもあって、1615年に英国国教会の牧師となる。17年には愛妻アンを失ったが、彼の説教者としての名声は急速にたかまり、ロンドンのセント・ポール大聖堂の司祭長として令名をはせた。彼の説教も、若いころの恋愛詩に似て、情念と知性の暗い錯綜や、〈形而上的〉奇想を特色とする。40年以降、何段階かに分けて《説教集》が出版された。彼の流れをくむ詩人たちを〈形而上詩人〉と呼ぶが、その作風も17世紀後半の王政復古期には時流にとり残されてしまった。しかしそれは20世紀前半の英米の詩的・批評的風土と合致し、T. S. エリオットらの手によってめざましく復活した。一時はブーム現象すら示したが、今日では鎮静している。しかし英詩の伝統の一つの極を示す詩人として、特異な評価はゆるがない。
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– 『世界大百科事典』によれば:<br/><blockquote>
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イギリスの宗教詩人。ペンブルック伯家につながる貴族の家に生まれ,ケンブリッジ大学卒業。学識と人柄を認められてそのまま大学に残り,各方面に知己を得て,一時は宮廷での立身も考えたが,思うところあって英国国教会に入った。1630年にウィルトシャーのベマートンという村の教区牧師になって,残りの短い歳月をその教区民のためにささげた。彼の家柄や学識とくらべあわせて,注目すべきことである。その間,彼は敬虔な思索瞑想にふけったらしく,その結果はすぐれた宗教詩や宗教的散文となってこの世に残った。とりわけ《聖堂》(1633)の題の下に集められた160編の詩は,措辞の清朗にして明澄なこと,思想の真摯(しんし)にして純一なことは,特筆するに足る。〈形而上詩人〉ダンが母の親しい友人であり,しかも英国国教会の先輩牧師であったこともあって,〈形而上詩〉の詩風は顕著に見てとれる。いわゆる〈奇想〉や〈機知〉は,とりわけ目だつ特徴である。しかしダンの博学な晦渋さはなく,むしろ日常卑近の事例から思いがけず機知に富んだ比喩を選んだりする。しかもそれが熱烈な信仰の表現と結びつく。この詩風がその時代の一部に強い影響を与えたのは,信仰が思想的・政治的対立抗争の道具に堕してゆく傾向への反動であっただろうか。R. クラショーや H. ボーンは,形而上派的宗教詩人としてのハーバートの後継者であった。
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– 『世界大百科事典』によれば:<br/><blockquote>
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イギリスの小説家,詩人。イングランド南西部,通常ウェセックス地方と呼ばれるドーセット州ドーチェスター市の近くで生まれた。父は建築家,母は文学の素養のある婦人だった。若いころは父の職業を継ぐべく建築の勉強にはげみ,1862年ロンドンに出て,建築懸賞論文で賞を得るなど,その才能をあらわした。しかしロンドンの生活を嫌ったために,建築界での出世をあきらめて故郷に帰り,文学を一生の仕事にしようと決意した。68年匿名で《貧民と貴婦人》という長編小説を書き,ロンドンの出版社に送ったところ,当時文壇で重きをなしていた G. メレディスの目にとまった。メレディスはこの小説があまりに過激な社会思想に色づけられ,出版社から排斥されるから,もっと筋立てのおもしろさをねらった作品を書いたほうがよい,とハーディに忠告した。この忠告に従って次作《非常手段》を書き,出版社に受け入れられ71年処女作として公刊された。