--- title: '『Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2008年 12/11号 [雑誌]』で気になった部分' author: kazu634 date: 2008-11-29 wordtwit_post_info: - 'O:8:"stdClass":13:{s:6:"manual";b:0;s:11:"tweet_times";i:1;s:5:"delay";i:0;s:7:"enabled";i:1;s:10:"separation";s:2:"60";s:7:"version";s:3:"3.7";s:14:"tweet_template";b:0;s:6:"status";i:2;s:6:"result";a:0:{}s:13:"tweet_counter";i:2;s:13:"tweet_log_ids";a:1:{i:0;i:4407;}s:9:"hash_tags";a:0:{}s:8:"accounts";a:1:{i:0;s:7:"kazu634";}}' categories: ---
今回もオシムの記事がありました。
- 長い間、自然にやってきた単純な動作を意識して繰り返すことが、我々を進歩させていく。私はこのことを改めて知った。学ぶことに終わりはない。(オシム)
- 日本人の生活水準は変えられない。そこが難しい。子供は全てを当たり前のように与えられている。過不足内サービスを受け、満足に暮らしている。そのうえ日本人は、何かを見て翌日にはそれを自分のものにすることができる。容易に模倣できるのが日本人の特質だが、サッカーではそれは不可能だ。本物の才能が必要な上に、ゲームでは複雑で現実のようにはうまくいかないからだ。サッカーのためには、”困難な状況を生きる”ことも学ばねばならない。それはネガティブとは行かないまでも、日本の日常生活では考えられないような数々の出来事を経験するということだ。(オシム)
- 練習で真剣に取り組めば、試合でも同じ事ができる。彼はそれをよく知っている。そして俊介が手本を示せば、他の選手も守備の大切さを決して忘れない。(オシム)
- 自分で責任を持って判断することも覚えなければダメだ。その点が日本には少し足りないかもしれない。(オシム)
- 日本には他人、つまり監督や会長などヒエラルキーの高いものが、全体の責任を取る習慣があるだろう。しかし、最終的に決断したのは自分である以上、責任も選手個人が引き受けるべきだ。ところが日本の場合、監督の指示と違うことを選手がリスクを冒してまでやるべきではないと思われている。そうすることがディシプリンであるかのように解釈されているからだ。(オシム)
なんか考えさせられる記事でした。
Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2008年 12/11号 [雑誌]