--- title: 会話にメタメッセージを載せるのは普通のこと author: kazu634 date: 2009-10-10 url: /2009/10/10/_1346/ wordtwit_post_info: - 'O:8:"stdClass":13:{s:6:"manual";b:0;s:11:"tweet_times";i:1;s:5:"delay";i:0;s:7:"enabled";i:1;s:10:"separation";s:2:"60";s:7:"version";s:3:"3.7";s:14:"tweet_template";b:0;s:6:"status";i:2;s:6:"result";a:0:{}s:13:"tweet_counter";i:2;s:13:"tweet_log_ids";a:1:{i:0;i:4821;}s:9:"hash_tags";a:0:{}s:8:"accounts";a:1:{i:0;s:7:"kazu634";}}' categories: - メモ ---

文学とかをやっている人にとっては当たり前のことを、はっきりと指摘してくれていて、うれしかったりする。

その作品を読んだことはないのでもしかすると想像を絶する空気読み会話なのかもしれないけれど、一般的に言えば、会話文にメタメッセージ(subtext)を載せるのは現代のテキストなら洋の東西は問わず普通のことで、上のブログで紹介されている作品も解説を読む限りでは「西洋人に理解できない、日本的なやりとり」であるようには見えない。

近代以降の戯曲やシナリオを読む場合は「登場人物は本音を台詞では語っていない」というのは出発点であって、良くできた芝居や映画では(たとえ「ハリウッド映画」であろうとも良作なら)全ての会話シーンは「人間同士が会話のキャッチボールをしている背後で、スタンド同士がドドドドドドドと擬音つきで殴りあっているようなもの」と言ってよい。だってそう作ってるのだから。