--- title: ”The Age of the Essays”の翻訳 author: kazu634 date: 2005-09-21 wordtwit_post_info: - 'O:8:"stdClass":13:{s:6:"manual";b:0;s:11:"tweet_times";i:1;s:5:"delay";i:0;s:7:"enabled";i:1;s:10:"separation";s:2:"60";s:7:"version";s:3:"3.7";s:14:"tweet_template";b:0;s:6:"status";i:2;s:6:"result";a:0:{}s:13:"tweet_counter";i:2;s:13:"tweet_log_ids";a:1:{i:0;i:2059;}s:9:"hash_tags";a:0:{}s:8:"accounts";a:1:{i:0;s:7:"kazu634";}}' categories: - つれづれ ---

この投稿は、Paul Graham氏のエッセー“The Age of the Essays”の翻訳をPaul Graham氏の許可を得て、公開するものです。エッセーとか論文とか何かものを書く人は、読めば何か得られるものがあるのではないかと思います。

まとまった文章を翻訳するのは初めての経験なので、表現などおかしな点があるかと思いますが、何かお気づきのことがありましたら、コメントかここまで連絡をお願いいたします。

Paul Graham氏のエッセーの存在に気づかせてくれたShiro氏に感謝します。Shiro氏が「知っておきたかったこと」の翻訳をウェブ上で公開しなければ、私はPaul Graham氏のエッセーに出会うことはありませんでした。また、気軽に「ブログをやってみないか?」と誘ってくれた同僚のO田くん、君がいなければ今ここでこんな風にして公開することはなかったよ。ありがとう。

2005.08.29(01:10):はじめて公開
2005.08.29(20:40):訂正・一段落翻訳するのを忘れていたので追加
2005.09.03(01:33):表現の訂正
2005.09.21(00:09):訳注の追加


エッセーの時代

2004年9月

 高校で書かなければならなかったエッセー【注1】を覚えているかい?導入となる段落、理由を与える段落、結論。結論というのは例えば、『白鯨』【注2】に出てくるエイハブはキリストに似た人物だ、というものだ。

 うーん。だから、私は別な側面を示そうと思う。つまり、エッセーとは本当はどんなもので、どのように書くのかということについて示していこうと思う。少なくとも、自分がエッセーをどのように書いているのかということについて書こうと思う。

一番明白な違い

 本物のエッセーと学校で書かなければならないものとの一番明白な違いは、本物のエッセーは英文学についてだけのものではないということだ。確かに、学校は生徒達に文章の書き方を教えなければならない。しかし、一連の歴史的出来事のために書くこと【注3】の授業は文学研究と混ざり合ってしまっている。そのためにアメリカ合衆国中で生徒達は、「少ない予算しかない野球チームがどのようにしてヤンキースと闘いうるのか」とか【注4】、「ファッションにおける色の役割」だとか、「何がよいデザートを構成するのか」といったことについて書くのではなく、「ディキンズ【注5】におけるシンボリズム【注6】」について書いているのである。

 このことにより、書くことは退屈で的はずれのように見えざるを得なくなる。誰がディキンズの作品におけるシンボリズムなんか気にするだろうか?ディキンズ本人でさえも、色や野球のことについて書かれたエッセーにずっと興味を持つはずだろう。

 どうしてこのようになってしまったのだろうか?その質問に答えるためには、ほぼ1000年の時を戻る必要がある。1100年頃に、ヨーロッパはついに何世紀にも及ぶ混乱を終え一息つき始めた。一度知的好奇心という贅沢をし始めると、ヨーロッパの人々は現在我々が「古典」と呼んでいるものを再発見した。その効果は、他の太陽系から来た生物に訪ねられた時のものにとてもよく似ていた。これら初期の文明【注7】はとても高度に洗練されていたので、それ以降の何世紀もの間ヨーロッパの学者の主な仕事は、ほぼすべての学問領域で古代ギリシア・ローマの人々が知っていたことを吸収することになったのである【注8】

 この期間中、古代の書物を研究することが権威を得るようになった。書物研究が学者が行っていたことの本質のように思えた。ヨーロッパの学問に弾みがつくにつれて、古代の書物研究は重要ではなくなっていった。1350年までには、科学について学びたいと望んでいた学生は、自分の同時代でアリストテレス【注9】よりも良い教師を捜すことができるようなった。[1]しかし、学校は学問よりもゆっくりと変化した。19世紀になっても、古代の書物の研究は依然としてカリキュラムの重要な要素であった。

 次に述べる質問をする時が熟した:古代の書物研究が学問の妥当な研究領域であるのなら、現代の書物も妥当な研究領域ではないのか?それに対する答えは、もちろん、古典を研究する学問のそもそもの存在理由は一種の知的考古学であり、現代の書物の場合になされる必要があるものではない、というものだった。しかし、わかり切った理由から、だれもそうした答えをしようとはしなかった。考古学的な研究がほぼ終わっていたので、古典を研究していた学者達は、時間を無駄にしているというわけではないが、少なくともあまり重要ではない問題に取り組んでいたからである。

 このようにして現代の文学についての研究が始まった。当初はとても多くの抵抗があった。英文学という学科目における最初の講義は新しい大学で行われたらしい。特にアメリカの大学で、だ。ダートマス大学、ヴァーモント大学、アマースト大学、ユニヴァーシティカレッジが1820年代に英文学を教えた。しかし、ハーヴァード大学では、英文学の教授は1876年までおらず、オックスフォード大学では1885年までいなかった(オックスフォード大学では、英文学の教授職を設けるよりも前に、中国についての教授職を設けていた)。[2]

 少なくともアメリカにおいて状況を決めてしまったのは、教授は研究だけでなく、教育も行うべきだとする考えであったように思える。この考えは(博士号、学部・学科、そして近代的大学という概念とともに)19世紀の後半にドイツから入ってきた。この新しい大学のモデルがジョンズ・ホプキンズ大学で1876年に採用されると、急速にアメリカ中に広まっていった。

 書くことは偶然の産物の一つだった。大学は長く文の構成法を教えてきた。しかし、文章の構成をどのように研究することができるだろうか?数学を教える教授には、もともとの数学【注10】を研究するように求めることができるし、歴史を教える教授には歴史についての学術的な論文を書くように求めることができる。しかし、修辞や文の構成法を教える教授には何を求めればいいのだろうか?そうした教授は何について研究するべきなのだろうか?最も関連性がある学問領域は英文学であるように思える。[3]

 このようにして19世紀後半に、書くことについての講義は英文学の教授により受け継がれていた。このことには二つの欠点があった。一つ目は、美術史研究者がよい芸術作品をつくることができなければならないことよりも多くの必要性はあるものの、文学についての専門家は良い文章を書ける必要がないということだ。二つ目は、英文学の教授が関心あるものが文学であるから、書くテーマが文学についてのものになりがちになってしまうということだ。

 高校は大学を模倣した。高校での惨めな体験の種は1892年に蒔かれた。その年に、全米教育協会は「公式に文学と文章構成法が高校の教育課程に統合するように薦めた」。[4]基礎学科【注11】のうちの書くという要素が国語【注12】という学科目に変わったのである。その奇妙な結果として、高校生達はいま英文学について書かなければならなくなっている。認識することさえなく、英文学の教授が数十年前に雑誌に投稿した論文を模倣したものを、高校生達は書かなければいけないのである。

 このことが当の生徒達にとって的はずれな課題に見えたとしても、驚くべきではない。理由は、私たちは今や実際に行われていることから三段階も離れていることになるからである。生徒達は英文学の教授を模倣し、英文学の教授は古典を研究する学者を模倣し、古典を研究する学者は、700年前には魅力的で緊急に必要とされる仕事であったものから生じた伝統を単に受け継いでいるに過ぎない。

弁護をしない

 本当のエッセーと学校で書かせられるものとの間の他の大きな違いは、本物のエッセーはある意見を主張し、そうしてからその意見を擁護するということを、しないことだ。その原則は、文学について書かなければならないという考えに似て、長く忘れられてきたエッセーの起源の知的名残りであることがわかる。

 中世の大学はほとんど神学校だったと、しばしば誤って信じられている。ところが実際は、中世の大学はずっと法律学校の性質を帯びていたのだった。少なくとも我々の伝統では、法律家というのは弁護士であり、論争のどちらの側にも立って、出来るだけ筋の通った主張をするように訓練を受ける。この精神が原因・結果のいずれなのかはわからないが、こうした精神は初期の大学に浸透していた。弁論術の研究、つまり説得力ある議論の技術は学部生の三つあるカリキュラムのうちの一つだった。[5]その講義受講後、最もありふれた議論の形式は討論となった。このことは少なくとも、名目上は現代の論文における弁護という形で保たれてきた。ほとんどの人々は卒業論文と(博士)論文という言葉を交換可能なものとして扱うが、少なくとも本来は、卒業論文というのはある立場から説得力を持たせて書かれるものであり、(博士)論文というのはその立場を弁護するための議論なのである。

 ある立場を弁護することは法律上の議論では必要悪であるかもしれないが、それは真実へとたどり着く一番の方法ではない。このことを法律家たちは真っ先に認めるであろうと私は思っている。この方法では洞察力を働かせられないというだけではない。本当の問題は、問いを変えることが出来ないということにある。

 しかし、この原則は高校で書くように教えられるものの構造そのものに組み込まれてしまっている。トピックセンテンス【注13】とは、事前に選ばれた仮説であり、理由を与える段落とは議論的対立の中で放つ打撃のことであり、そして結論とは―アー、結論とはなんだろう?私は高校のとき決して結論が何であるか確信を持つことはなかった。第一段落で述べたことをもう一度言い直さなければならないようだったのだが、誰もわからないぐらいまでに別な言葉を用いて言い直さなければならないようだった。なぜ言い直さなければいけないのだろうか?しかし、この種の「エッセー」の起源を理解すると、どこから結論が生じたのかがわかるだろう。結論は、陪審員達にとっての結論となる言葉なのである。

 良い文章は確かに納得させるものであるべきだが、良い文章が我々を納得させるのは正しい答えに到達したからであって、議論を上手に行ったからではない。私がエッセーの草稿を友達に見せるとき、私が知りたいことは次の二つのことだ。一つ目は、どの部分が退屈かということ。二つ目は、どの部分が納得できないかということ。退屈な部分というのは大抵の場合削除することで直すことが出来る。しかし、私は読んで人を納得させられない部分をもっと明晰に議論することで直そうとはしない。必要なのは、そのことについて読んでくれた人と十分に話し合うことなのだ。

 控えめに言って、エッセーの中で私はひどい説明をしていたに違いない。その場合は、会話の中でより明確な説明を思いつかざるをえなくなる。その思いついた説明を、私はただエッセーの中に組み込むのである。こうすることで、私が述べたいことまで変えざるをえなくなることがとても多い。しかし、エッセーの目的とはけしてそれ自体で説得力あるものであることではない。読者が賢くなっていくにつれて、説得力あることと真実であることは同じものとなる。だから、賢い読者を納得させられれば、私は真実に近い所にいるに違いないことになる。

 議論をして論破しようと試みる種類の文章が、法律家の文章としては妥当な(あるいは、少なくとも不可避の)形式ではあるかもしれないが、その形式の文章をエッセーと呼ぶのは歴史的に見て不正確なのである。エッセーというのは別のものだ。

理解しようと試みること

 本当のエッセーがどういうものであるのかを理解するために、今回は前回ほどさかのぼりはしないが、私達は再び歴史をさかのぼる必要がある。1580年に”Essais”と自身が呼んだ本を出版したモンテーニュ【注14】にまでさかのぼる。モンテーニュは法律家たちが行っていることとはかけ離れたことを行っており、その違いはその書名の中に具体的に表されている。”essayer”というのは「試みる」という意味のフランス語の動詞で、”essai”とは試みである。【注15】エッセーとは、それを書くことで何かを理解しようと試みることなのである。

 何を理解しようとするのだろうか?君はまだそれを知らない。だから、君は仮説からはじめることが出来ない。理由は、君が仮説を持たず、そして決して仮説を持つことがないだろうからだ。エッセーは主張で始まるのではなく、問いで始まるんだ。本当のエッセーでは、ある立場に立ってその立場を弁護するということをしない。ドアが少し開いているのに気づいて、そのドアを開けて中に入り、中がどうなっているのかを見てみる、ということを本当のエッセーではするんだ。物事を理解したいだけなのであれば、なぜ文章を書く必要があるのだろうか?ただ座って、考えていれば良いのではないか?えぇと、まさしくそこにこそ、モンテーニュの偉大な発見があったんだ。考えを表現することは、考えを形成するのを助ける。それどころか、「助けになる」というのは控えめにすぎる表現だ。私のエッセーの中で書かれたことの大半を思いついたのは、私が椅子に座ってエッセーを書いてからだった。だから、私はエッセーを書くんだ。

 学校で書くものの中では、君は理論上、読者に自分自身について説明しているにすぎないことになる。だけど、本当のエッセーでは、君は自分のために書くことになるんだ。声を出して考えていることになる。

 しかし、完全に自分のために書いているということにはならない。ちょうど人を自分の家に招くと部屋を掃除しなければならなくなるように、他の人が読むことになるものを書くことは十分に考えるよう要請する。だから、読者を持つことはとても重要になる。自分だけのために私がこれまで書いてきたものは、けして良いものではなかった。そうした文章は先細りになっていく傾向にある。私は困難にぶつかると、少数の曖昧な問いとともに結論を下し、書くことから離れて紅茶を飲みに行くことを知っている。

 出版されている多くのエッセーも同じようにして先細っている。とりわけ、時事解説誌の専属記者によって書かれた種類のエッセーがそうだ。外部の記者は、ある立場に立って、その立場を弁護する様々な論説を提供する傾向にあり、そうした論説は興奮を呼び起こし(、そしてあらかじめわかりきった)結論に向けてまっすぐに進む。しかし、専属記者は「偏りのない」ものを書かなければならないと感じている。そうした記者たちは大衆誌のために書いているのだから、議論の的となる問いで記事を始める。そうした問いから―というのも、記者たちは大衆誌のために書いているのだから―記者たちは前に進んでいくのだが、結局は恐怖で後ずさりすることになる。妊娠中絶に賛成か反対か?このグループはこのように述べており、あのグループは別なことを述べている。ただ一つ確かなことは、妊娠中絶は複雑な問題ということだ(けれど、私たちを怒らないでほしい。私たちは結論を出さなかったのだけれど)、というように。

河のように

 問いだけでは十分ではない。エッセーは答えを提出しなければならない。いつも提出しなければならないわけでは、もちろんない。時には、見込みがある問いから初めて、どこにもたどり着けないこともある。しかし、そうしたエッセーを発表してはいけない。そうしたエッセーは結論に導くような結果が得られない実験のようなものだ。発表するエッセーは、読者にそれまで知らなかったことを伝えるものでなければならない。

 しかし、伝える内容は重要ではない。その内容が面白いものである限りは。私は時々散漫に論じていると責められることがある。ある立場に立って、その立場を弁護するスタイルの文章では、それは欠点になるだろう。というのも、そうした文章では真実に関心を払ってはいないために、すでにどこに向かっているのかを知っていて、そこに向かってまっすぐに向かい、障害の中をどなりちらして進み、湿原を超えていくことを何でもないことのように扱うのである。しかし、それはエッセーの中で君が行おうと試みていることではない。エッセーは、真実を求めるものでなければならない。もしエッセーがわき道にそれていかなければ、そのエッセーはうさんくさいものになるだろう。

 メンダー(別名メンデレス川)はトルコにある河だ。予想の通り、この河はいたる所で曲がりくねる。【注16】しかし、何の考えも無しに曲がりくねっているわけではない。メンダーの流れの向きは、海へと向かう最も経済的なルートなのである。[6]

 河のアルゴリズムは単純だ。どの段階においても、低い方へと流れていく。エッセーを書く人のためには、次のように言い換えることが出来る。面白いものへ向かって流れていけ、と。次に行くことが出来る全ての場所の中から、一番面白いものを選ぶんだ。人は河と同じぐらい先が見えないわけではない。【注17】私はいつも、何について書きたいのかを大体は知っている。けれど、自分がたどり着きたいと望んでいる明確な結論が何なのかを知らない。段落から段落へと、私は自分の考えが流れていくのに任せて書いている。

 この方法がいつもうまくいくとは限らない。時には、河のように、壁にぶつかることもある。そうした時、私は河がしているのと同じことをする。同じ道を戻っていくんだ。このエッセーのある地点で、私はある筋道をたどった後で考えが尽きてしまったことに気づいた。私は7段落分戻って、別な方向に向かってやり直したのだった。基本的に、エッセーとは一連の考えである―しかし、劇や物語の会話の部分が整えられた後の会話であるように、整えられた一連の考えである。本当の考えは、本当の会話に似て、誤ったゆがみに満ちている。そうしたものを読むことで、極度に消耗してしまうだろう。鉛筆で描かれた絵の上にインクを入れるイラストレーターのように、文を削ったり、付け加えたりして、中心の筋道を強調する必要がある。しかし、あまりに多くの部分を変えて、元の文章の自然さを失わせてはならない。

 間違いを犯すとしても、河と同じ間違いをするようにしよう。エッセーは参照する作業ではない。エッセーは特定の答えを求めて読むものではなく、そうした答えが見つけられないと騙されたと感じるものではないのだ。私は、事前に規定された道に沿って義務的にゆっくりと進むエッセーよりもむしろ、予期していなかったけれど面白い方向へと進んでいくエッセーを読みたい。

驚き

 それでは、何が面白いのだろうか?私にとっては、面白いとは驚きを意味する。ジェフリー・ジェームズがこれまで述べてきたように、インターフェース【注18】は最小限の驚きという原則に従うべきだ。それを押したら機械を止めるように見えるボタンは、機械を止めるものでなければならない。逆に、スピードを上げるのではなく。エッセーは、この全く逆を行うべきだ。エッセーは、最大限の驚きを目標とすべきなんだ。

 私は飛行機に長時間乗ることをおそれているので、他人の経験を通じて旅行を楽しむことしかできない。友人が遠い場所から帰ってきたとき、私が友人に何を見てきたのかと聞くのは、ただ礼儀上そのようにしているのではない。私は本当に知りたいんだ。そして、友人から情報を得る一番の方法は、何に一番驚いたのか尋ねることだと気づいた。期待していたのと、旅行した土地はどのように異なっていたのか?これはきわめて有益な質問だ。注意して見ていなかった人にさえその質問をすることが出来るし、その質問をすることで、そうした人たちが記憶していたとさえ知っていなかった情報を引き出すことが出来るだろう。

 驚きは知らなかったことというだけでなく、自分が知っていると考えていたことに反することでもあるのだ。だから、驚きというのは手に入れることが出来る事実の中でも最も価値ある種類の事実である。そうした事実は単に健康的であるだけでなく、すでにこれまで食べてきたものが持つ不健康にする影響を中和する食べ物に似ている。

 どのようにして驚きを見つけるのか?そこにこそ、エッセーを書くことの仕事の半分がある(後の半分は自分の考えを十分に表現するということだ)。コツは、自分自身を読者の代理として使うということだ。何度も考えてきたことについてだけ書くべきなんだ。その話題についてこれまでずっと考えてきた人を驚かすものは、きっとほとんどの読者を驚かすことになるだろう。

 例えば最近書いたエッセーで私は、コンピュータープログラマーを判断する方法は一緒に働くこと以外にはないのだから、総合的に誰が一番のプログラマーなのかは誰もわからない、と指摘した。私がそのエッセーを書き始めた時にこのことに気づいてはおらず、今でさえもこの考えのことを幾分奇妙だと思っている。そうしたものこそが、探し求めているものなんだ。

 だから、エッセーを書きたいのであれば、次に述べる二つの材料が必要になる。これまでたくさん考えてきた少数の話題、そして予期しなかったものを探し出す能力。

 何について考えるべきなのだろうか?私の推測では、その問いは重要ではない―つまり、そのことに深く関わっていれば、何でも面白いものになり得るのではないだろうか。あり得そうな例外には、ファストフード産業で働くことのように、意図的に一律にしてしまう物事が考えられる。振り返ってみると、バスキン-ロビンズ【注19】で働くことについて何か面白いことがあっただろうか?しかし、客にとって色がどれほど重要かということは面白かった。ある年齢の子供たちはケースを指し示して、黄色のアイスが欲しいと言う。その子供たちはフレンチバニラとレモンのどちらが欲しかったのだろうか?子供たちはポカンとしてこちらを見てくるだろう。子供たちは黄色のアイスが欲しいのだ。一年を通じて一番売れるPralines’n’ Creamがなぜ客に訴えかけるのかという謎がある。そして、父親と母親が子供たちにアイスを買うときの振る舞いの違い、というのもある。父親は慈悲深い王様のように大きなアイスを子供に与え、それに対して母親は悩んで、子供たちに言われた通りのものを買う。だから、そうだ、ファストフード産業にさえもエッセーのテーマになりうる材料があるように思える。

 けれど、私は勤めていた当時はそうしたことに気づかなかった。16才の時、私は木石と同じ程度しか注意深くはなかった。私がその当時に実際に自分の目の前で起こったことから見て取ることが出来るものよりも多くのことを、今の私はその当時の記憶から引き出すことが出来るのだ。

観察

 だから、予期しないものを見つけ出す能力は生まれつきのものではないに違いない。その能力は身につけることが出来るものに違いないのだ。では、どのようにして身につけるのだろうか?

 ある程度まで、それは歴史を学ぶことに似ている。はじめて歴史を読んだとき、歴史は一連の名前と年号が混じり合っているものに過ぎない。何も引っかかりはしないように思える。しかし、多くを学べば学ぶほど、新しい事実を関連づけるとっかかりがますます増えていくのだ―このことが意味するのは、指数的な割合で【注20】知識を蓄積しているということだ。一度ノルマン人が西暦1066年にイングランドを侵略していることを覚えたら、他のノルマン人がほぼ同時期に南イタリアを征服したと聞いたとき、その話に関心を抱くことだろう。そうしたことに関心を抱くことでノルマンディーについて好奇心を持ち、三冊目に読んだ本がノルマン人は、現在フランスと呼ばれているところに住んでいる大半の人々のようにローマ帝国が崩壊したときに流入してきた部族ではなく、4世紀後の西暦911年にやって来たヴァイキング(ノーマンとは、北方の人々のことである【注21】)だと述べたとき、注意することになる。こうしたことに注意すると、ダブリンはヴァイキングによって西暦840年代に開かれたことを覚えるのもより容易になる。こうして、二乗の割合で覚えていくことになるのである。

 驚きを集めるのも同様な過程である。より多く例外的なものを見ていればいるほど、より容易に新しい例外的なものに気づけることになる。つまり、奇妙なことに年を重ねていくほどに、人生というのはもっとずっと驚きに満ちたものになっていくんだ。私が子供だったとき、大人は何でもわかっているんだ、とよく考えたものだった。私は逆に考えていたんだ。子供たちの方こそが、何でもわかっているんだ。子供たちはただ誤解しているんだ。

 驚きに関していえば、富める者がますます富んでいく。しかし、(富と同じで)そうした過程を助ける心の習慣というものがあるかもしれない。質問をするという習慣を持つのはいいことだ。とりわけ、「なぜ」で始まる質問をする習慣を持つことは。しかし、3才の子供がするようなランダムなやり方で質問をしてはいけない。無限の数の質問があるけれど、その中から有益な質問をどのようにして見つけるのだろうか?

 誤っているように思えることについて質問をすることがきわめて役に立つことを私は知っている。例えば、なぜユーモアと不幸の間に繋がりがなければならないのだろうか?なぜ好きな登場人物でさえもバナナの皮で滑って転ぶと私たちは愉快に感じるのだろうか?そこには確かにエッセーまるまる一つ分に値する驚きがあるはずだ。

 誤っているように思える物事に気づきたいのであれば、ある程度の懐疑主義が役立つことに気づくだろう。私たちは自分たちが出来ることのたった1%しか達成していない、ということを私は自明の理だと思っている。こうした考えは、子供の時に頭の中にたたき込まれた「物事が現在のようになっているのは、そのようになっていなければならないからだ」という規則を打ち消すのに役立つ。例えば、このエッセーを書いている間に私が話をした人はみんな国語の授業について同じことを感じていた―彼らは全過程が的はずれのように感じていたのだ。しかし誰もその当時は、国語の授業が事実みんな間違えているのだ、と仮説を立てる勇気を持っていなかった。私たちはみんな、捉えてはいない何かがあるのだと考えていたんだ。

 ただ誤っているというだけではなく、ユーモアに富んだ方法で誤っている物事に注意を払いたい、と思い始めたのではないかと思う。私はいつも、私のエッセーの草稿を読んで人が笑うのを見て、喜ぶ。しかし、なぜ喜ぶべきなのだろうか?私は良い考えを目標にしている。なぜ良い考えは愉快でなければならないのか?その繋がりは驚き、であるかもしれない。驚きは私たちを笑わせ、そして驚きこそがエッセーで述べたいものなのである。

 私はノートに驚いたことを書きつけている。私は実際の所、決してそのノートを読んで、エッセーのネタにするということはしていないが、同じ考えを後になってはっきりと思い浮かべる傾向にある。だから、ノートの主な価値というのは書くことで頭に残るもの、ということになるのかもしれない。

 落ち着きをはらおうと努めている人々は驚きを集める際に、不利な立場にいることに気づくだろう。驚くということは間違えるということだ。冷静さの本質とは、どんな14才の子供でも教えてくれるように、「平然とした状態」なのだ。間違えたとき、そのことについてくどくど考えるな。ただ何も間違えてはいないように振舞うんだ。そうすれば、ひょっとしたら誰も気づかないかもしれない。

 冷静さを得るための一つの方法は、不慣れなことをして愚かなように思わせかねない状況を避けることだ。驚きを集めたいのであれば、その反対の事をしなければならない。さまざまなことを勉強するんだ。理由は、とても面白い驚きというもののいくつかは、異なる領域間の予期しない繋がりだからである。例えば、ジャム・ベーコン・ピクルス・チーズ(これらはとても好まれている食材だ)は、すべて元々は保存するための手段として意図された。保存するために意図されたというのは、本と絵画についても当てはまる。

 何を学んでも良いが、歴史を含めるようにしよう―といっても、社会・経済史をであって、政治史ではない。私には歴史は、とても重要なものに思えるので、歴史を単なる研究領域と見なすのは人を誤解させることになると思う。歴史を別な言い方で表現すれば、「これまで私たちが蓄えてきたすべてのデータ」となるのだから。

 他のものの中でも、歴史を勉強することは気づかれないままの状態ですぐ目の前に良い考えが発見されるのを待っている、という自信を与えてくれる。剣は、青銅器時代【注22】の間に短剣から考案された。剣は(石器時代につくられたものに似ていて)刃から分離された(刀剣の)つかを持っていた。そうしてできた剣は、それまでのものにくらべて長かったので、つかは折れつづけた。しかし、つかと刃を溶かして一つにすることを思いつくまでに、500年かかったのである。

服従しないこと

 特に、不適切であるとか、重要ではないとか、取り組むべきものではないとかいう理由で注目すべきではないとされている事柄に対して注目する習慣を持つようにしよう。もし何かについて興味があるのであれば、自分の本能を信じるようにしよう。自分の注意を引いた筋道をたどるんだ。本当に興味あることがあるのであれば、説明のつかないような方法で、そうした筋道が興味あることの方へと戻すことがわかるだろう。それはちょうど、何事かについてとても誇りを持っている人々の会話が、常にその誇りとしていることに戻って行きがちであるのに似ている。

 例えば、私はいつもコウム・オーバー【注23】に魅せられてきた。とりわけ、まるで自分の髪でできたベレー帽をかぶっているように見える極端な種類の髪型にだ。たしかに、このことは興味を持つにはつまらない種類のことではある―ティーンネイジャーの女の子たちに委ねるのが一番の、表層的な質問ではある。しかし、その背後には重要なものがある。重要な問いは、どうしてコウム・オーバーは自分がなんと奇妙な髪形をしているのかということがわからないのだろう、ということだと私は理解している。そしてその答えは、そのような髪形をするように徐々になっていったということだ。【注24】髪の毛が薄くなってしまった部分を覆い隠すように髪の毛をとかすというようにして始まったものが、徐々に20年以上の時を経て、奇怪なものへとなったのである。緩やかに進行することはとても強力だ。そして、その力は建設的な目的に用いることができる。ちょうど自分のことを変人のように見せることができるように、とても規模が大きいためにこれまでに一度だってそのようなものを作ろうだなんて計画しようとしたこともない何かを作ろうとすることができる。つまり、余分な機能を一才省いたカーネル【注25】を書くこと(それはどれほど困難なことだろうか?)からはじめて、徐々に完璧なオペレーティング・システムにしていくんだ。従って次の問いは、同じことを絵画や小説でできるかということになる。

 取るに足りないように思える問いから、何を引き出すことがわかっただろうか?エッセーを書くことについて、私が一つだけ忠告をするとすれば、それは次のようになる。言われた通りにはするな。しなければならないとされていることを信じるな。読者が展開を予想するエッセーを書くな。内容が予想できるエッセーからは何も得ることがない。学校で教えられたようなやり方でエッセーを書くな。

 最も重要な種類の不服従は、ともかくエッセーを書くことだ。幸いなことに、この種の不服従によりエッセーが多くなる兆しを見せている。かつては少数の公に認められた記者だけがエッセー書くことを許された。雑誌はそうしたエッセーのほんの少数しか発表せず、書かれた内容よりも誰が書いたのかによってエッセーを判断する。仮に記事の出来が十分に良ければ、無名の記者の記事を雑誌は掲載するかもしれない。しかし、xについてのエッセーを掲載するのであれば、そのエッセーは少なくとも40才を超え、その職業上の肩書きにxを含んでいる人物が書いたものでなければならない。これは問題である。理由は、まさしくそうした人々が内情に明るいので、そうした人には言うことの出来ないことが数多くあるからである。

 インターネットはエッセーに対する態度を変えた。誰でもウェブ上でエッセーを公開でき、どんなエッセーでもそうあるべきなのだが、誰が書いたのかではなく、そのエッセーの内容で判断されるようになった―xについて書こうとするなんて何様のつもりだ、というのではなく、誰でもどんなことについても書く資格があるんだ。

 大衆誌は、読み書きの能力が人々の間で広まっていきテレビが生まれるまでの時代を短編小説の黄金時代にした。おそらくウェブも、今この時をエッセーの黄金時代にするだろう。そして、それこそがまさしく私がこのエッセーを書き始めたときには気づいていなかったことなんだ。


原注

ケン・アンダーソン、トレヴァー・ブラックウェル、サラ・ハーリン、ジェシカ・リヴィングストン、ジャッキー・マクドナ、そしてロバート・モリスに感謝する。このエッセーの草稿を読んでくれたので。


訳注