--- title: 学びについて author: kazu634 date: 2008-09-15 wordtwit_post_info: - 'O:8:"stdClass":13:{s:6:"manual";b:0;s:11:"tweet_times";i:1;s:5:"delay";i:0;s:7:"enabled";i:1;s:10:"separation";s:2:"60";s:7:"version";s:3:"3.7";s:14:"tweet_template";b:0;s:6:"status";i:2;s:6:"result";a:0:{}s:13:"tweet_counter";i:2;s:13:"tweet_log_ids";a:1:{i:0;i:4269;}s:9:"hash_tags";a:0:{}s:8:"accounts";a:1:{i:0;s:7:"kazu634";}}' categories: - メモ ---

同じく『下流志向──学ばない子どもたち、働かない若者たち』から:

学びというのは、自分が学んだことの意味や価値が理解できるような主体を構築してゆく生成的な行程です。学び終えた時点で初めて自分が何を学んだのかを理解するレベルに達する。そういうダイナミックなプロセスです。学ぶ前と学び終えた後では別人になっているというのでなければ、学ぶ意味がない。

これを僕は「メンター(先達)のパラドクス」と呼んでいます。僕たちがある知識なり技術なりを習得しようと望むとき、メンターについて学びます。しかし、メンターというのはよく考えるとまことに不条理な存在です。

武術でも芸術でも、何かを習おうとするとき、仮にそこに何人かのメンター候補者がいたとします。誰について学ぶべきか、僕たちはその中から選ばなければならない。でも、僕たちはこれから学ぶ知識や技術についてよく知らない。よく知らないからこそ「学びたい」と思っているわけだから、知らなくて当然です。しかし、よく知らない分野のことについて、誰が技芸に優れており、誰が自分を過たず目的地に連れて行ってくれるのかを決定しなくてはならない。でも、初心者はその定義からして「目的地」がどこだかよくわかっていない。自分がどこに行くのか知らない人間が自分を目的地に連れて行ってくれる人間が誰であるかを言い当てなくてはいけない。これを「不条理」と申し上げたのです。

学びについては強く同感する。

最近はGaucheの勉強をしていて、lambdaとか高階関数だとかをid:SaitoAtsushiさんやshiroさんから示唆をもらいながら学んでいる。今日は9章の9.3まで読んだ。

  1. Schemeではすべてが式
  2. 手続きを返す手続き(=高階関数)が書ける

ということを組み合わせて、9.3節でこれまで自分が知っているようなプログラミングの常識からは全く異なるレベルのパターンの抽象化が展開されるのを目の当たりにした。そして、それが理解できる自分がいた。これって、すごくダイナミックなプロセスだ!今まで理解できていなかったが、理解できるようになるっていうのは。

そんでもって、プログラミングとかといった分野ではメンターがどうとか言う問題もあんまり意味がなくなっているんじゃないかなと感じる。こうやってブログに色々と書き付けていると、Gaucheを作っているshiroさんにコメントしていただいたりするチャンスは少なくともあるわけで。。。これってすごいことですよね。自分のやる気次第では、shibuya.lispに参加することだってできるわけだし。機会はごろごろ転がっていて、それを利用しようと選択することが重要になってきているような気がする。