--- title: 『ゲド戦記』原作者Ursula K Le Guinの映画に対するコメント author: kazu634 date: 2006-08-15 wordtwit_post_info: - 'O:8:"stdClass":13:{s:6:"manual";b:0;s:11:"tweet_times";i:1;s:5:"delay";i:0;s:7:"enabled";i:1;s:10:"separation";s:2:"60";s:7:"version";s:3:"3.7";s:14:"tweet_template";b:0;s:6:"status";i:2;s:6:"result";a:0:{}s:13:"tweet_counter";i:2;s:13:"tweet_log_ids";a:1:{i:0;i:2487;}s:9:"hash_tags";a:0:{}s:8:"accounts";a:1:{i:0;s:7:"kazu634";}}' categories: - つれづれ ---

ゲド戦記Wiki - ジブリ映画「ゲド戦記」に対する原作者のコメント全文(仮)

 映画『ゲド戦記』に対する原作者のコメントが、原作者であるUrsula K Le Guinのサイトで公開されました。読んでて、背筋が冷たくなってきました。非常に丁寧にLe Guin氏はコメントなさっているのですが、その内容は怖いです…以下、引用:

全体としては、エキサイティングです。ただしその興奮は暴力に支えられており、原作の精神に大きく背くものだと感じざるをえません。

全体としては、思うに、一貫性に欠けています。これはたぶんわたしが、まったく違う物語の中で、自分の書いた物語を何とか見つけ、追っていこうとしていたせいでしょう。わたしの物語と同じ名前の人物が登場するのに、まるで違う気質と経歴と運命を負っているため、混乱してしまったのです。

もちろん映画は、小説を正確になぞろうとすべきではありません――両者は異なる芸術で、語りの形式がまったく違っているからです。大きな変更が生じるのは当然でしょう。そうは言っても、同じ題名を冠した、40年にわたって刊行の続いている本を原作にしたと称するからには、その登場人物や物語全体に対して、ある程度の忠実さを期待するのは当然ではないでしょうか。

アメリカと日本の映画製作者はどちらも、名前といくつかの考え方を使うだけで、わたしの本を原作と称し、文脈をあちこちつまみ食いし、物語をまったく別の、統一性も一貫性もないプロットに置き換えました。これは本に対する冒涜というだけでなく、読者をも冒涜していると言えるのではないでしょうか。

映画の“メッセージ”も、やや不器用に思えます。しばしば原作から引用してはいるものの、生と死、均衡などの言葉が、原作の登場人物やその行動から導かれたものになっていません。意図はどれほどすばらしくても、物語や登場人物の内面を反映していないのです。“苦労して身につけた”ものではないため、説教くさいだけになってしまっています。アースシー・シリーズでも、とくに最初の3巻では金言めいた文章がありますが、これほどあからさまではないと思います。

原作の道徳的な意味合いも、映画ではあいまいになっています。たとえばアレンの父親殺しは、映画では動機がわからず、恣意的なものに見えます。影/分身に命じられたという説明はあとで出てきますが、説得力がありません。なぜ少年は2つに分裂したのか? 手がかりは何もありません。これは『影との戦い』から採られたエピソードですが、原作ではゲドがいかにして影につきまとわれるようになったか、その理由も、最後には影の正体も明らかになります。わたしたちの心の闇は、魔法の剣の一振りで追い払えるようなものではないのです。

しかし映画では、邪悪さはわかりやすく悪党という形で外部化され、魔法使いクモが殺されて、すべての問題は解決してしまいます。

現代のファンタジー(文学でも政治でも)では、いわゆる善と悪との戦いにおいて、人を殺すというのが普通の解決法です。わたしの本はそうした戦いを描いてはいませんし、単純化された質問に対して、単純な答えを用意してもいません。

 この原作者のコメントを読んだときに思い浮かんだのは、うちの教授が専門とするDickensの短編集を新たに翻訳したものの出来があまりにひどい(原文に全く書いていないこと、文脈から想像すらできないようなことを、自分勝手にでっちあげてしまっているような翻訳だった)ために、その翻訳を批判している文章を読んだときのことでした。うちの教授はDickensの世界的な研究者なので、その人に批判されるということは、その翻訳家は文芸翻訳をもう一切任せてもらえないのでは…と考えて、ちょっとチビったのを覚えています。