--- title: ”The Age of the Essays”の翻訳(断片) author: kazu634 date: 2005-08-27 wordtwit_post_info: - 'O:8:"stdClass":13:{s:6:"manual";b:0;s:11:"tweet_times";i:1;s:5:"delay";i:0;s:7:"enabled";i:1;s:10:"separation";s:2:"60";s:7:"version";s:3:"3.7";s:14:"tweet_template";b:0;s:6:"status";i:2;s:6:"result";a:0:{}s:13:"tweet_counter";i:2;s:13:"tweet_log_ids";a:1:{i:0;i:1993;}s:9:"hash_tags";a:0:{}s:8:"accounts";a:1:{i:0;s:7:"kazu634";}}' categories: - つれづれ ---

この投稿は、Paul Graham氏による”The Age of the Essays”を翻訳しようとした断片である。

これで全文を訳し終わった。Paul Graham氏に全文の掲載許可をお願いしてみようかしら。


服従しないこと

 特に、不適切であるとか、重要ではないとか、取り組むべきものではない、とかいう理由で注目すべきではないとされている事柄に対して注目する習慣を持つようにしよう。もし何かについて興味があるのであれば、自分の本能を信じるようにしよう。自分の注意を引いた筋道をたどるんだ。本当に興味あることがあるのであれば、説明のつかないような方法で、そうした筋道が興味あることの方へと戻すことがわかるだろう。それはちょうど、何事かについてとても誇りを持っている人々の会話が、常にその誇りとしていることに戻って行きがちであるのに似ている。

 例えば、私はいつもcomb-overに魅せられてきた。とりわけ、まるで自分の髪でできたベレー帽をかぶっているように見える極端な種類の髪型にだ。たしかに、このことは興味を持つにはつまらない種類のことではある―ティーンネイジャーの女の子たちに委ねるのが一番の表層的な質問ではある。しかし、その背後には重要なものがある。重要な問いは、どうしてcomber-overは自分がなんと奇妙な髪形をしているのかということがわからないのだろう、ということだと私は理解している。そしてその答えは、そのような髪形をするように徐々になっていったということだ。【注1】髪の毛が薄くなってしまった部分を覆い隠すように髪の毛をとかすというようにして始まったものが、徐々に20年以上の時を経て、奇怪なものへとなったのである。緩やかに進行することはとても強力だ。そして、その力は建設的な目的に用いることができる。ちょうど自分のことを変人のように見せることができるように、とても規模が大きいためにこれまでに一度だってそのようなものを作ろうだなんて計画しようとしたこともない何かを作ろうとさせることができる。つまり、余分な機能を一才省いたカーネル【注2】を書くこと(それはどれほど困難なことだろうか?)からはじめて、徐々に完璧なオペレーティング・システムにしていくんだ。従って次の問いは、同じことを絵画や小説でできるかということになる。

 取るに足りないように思える問いから、何を引き出すことがわかっただろうか?エッセーを書くことについて、私が一つだけ忠告をするとすれば、それは次のようになる。言われた通りにはするな。しなければならないとされていることを信じるな。読者が《展開を》予想するエッセーを書くな。内容が予想できるエッセーからは何も得ることがない。学校で教えられたようなやり方でエッセーを書くな。

 インターネットはエッセーに対する態度を変えた。誰でもウェブ上でエッセーを公開でき、どんなエッセーでもそうあるべきなのだが、誰が書いたのかではなく、そのエッセーの内容で判断されるようになった。xについて書こうとするなんて何様のつもりだ?誰でも、どんなことについても書く資格があるんだ。

 大衆向けの雑誌は、読み書きの能力が人々の間で広まっていきテレビが生まれるまでの時代を、短編小説の黄金時代にした。おそらくウェブも、今この時をエッセーの黄金時代にするだろう。そして、それこそがまさしく私がこのエッセーを書き始めたときには気づいていなかったことなんだ。


訳注