blog/content/post/1970-01-01-『政治的無意識―社会的象徴行為と...

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『政治的無意識―社会的象徴行為としての物語』の第二章 kazu634 1969-12-31 /1970/01/01/_63/
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修論
英文学

 自分の批評的立ち位置を示すためにも第二章を読まないとあかん。でも、ようわからんきがする。

追記:一度通して読んだぐらいじゃ、わからんぞ。。。

ジャンルは本来、文学的制度であり、作家と特定の読者層を結びつける社会的契約であり、その機能は文化的造形物の正しい取り扱いを決めることにある。日常の言語行為は、その適切な受容を保証する指示や信号(抑揚、身振り、文脈的示唆や語用論的要素)によって特徴づけられている。だが、もっと複雑な社会生活を伝達する状況―エクリチュールの出現はそのような状況と等価であるとしばしば考えられてきた―においては、もし問題にしているテクストを多様な使用(ウィトゲンシュタインいわく、《意味》とは記述されなければならない[つまり意味とは用法である])にゆだねたりしないなら、知覚的信号に取って代わるべきは約束事である。それでもやはり、テクストが直接的な運用の状況から離れ自由になればなるほど、読者に対しジャンルの規則を押しつけるのが難しくなる。つまり、ある文学的発話に対して望ましくない反応を自動的に排除してくれるような、間違えのない伝達のメカニズムを作り出そうと(無駄な)努力をしてみても、それは創作の技術としては全く役に立たないのである。~(129-30)

さて、このような読みに基づくなら、この一見統一された形式としての「小説」は、一種のX線技術による分析を受けやすい、ということになる。そのX線技術は、これから私たちが《ジャンルの不連続性》と呼ぶものに即して、層をなしたり、大理石も用をなしたりしているテクストの構造を明らかにする。そうなら、小説とは有機的統一体などではなくて、むしろ、ある象徴行為であって、それぞれに独自で相矛盾するイデオロギー的意味を持った異質な物語パラダイムを、再統一あるいは調和させるものである。~(176)

リアリズム出現のこうした最初期には、目の前に実在するものに神経を集中せよというジャンル的規制のおかげで、かえってテクストの使用域が解放される効果があり、異種の歴史的パースペクティヴ―スコットの場合は過去、バルザックの場合は未来、ドライサーの場合は商品化の過程―が解き放たれた。歴史的現在のみを中止する立場と、こうした混在する異種の歴史的パースペクティヴとは、相容れないのが普通である。現に、のちの「最盛期の」リアリズムや自然主義は、この多層的時間を再び排除し再抑圧する傾向に向かうだろう。そうなると、完成された物語技法(とくに三つの守るべき規則―著者の姿が見えなくなり没個性化されること、視点を統一すること、情景的再現=表象だけに局限すること)のせいで、「リアリスティック」な選択肢が、自らに苦行を課し窒息しかけている様子が見え始める。こうして後期資本主義に置いてリアリズムが徐々に物象化されてゆくまさにその文脈の中で、ロマンスは異種の物語が混在する場、リアリズムの再現=表象を縛り抑圧しているあの現実原則からの解放の場、として再認識されるようになる。~(127)

同書では、ジャンルは一連の限定された機能、言い換えれば私たちが構造あるいは定められた形式と呼ぶものの観点から、捉えられている。~(132)