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森村泰昌・なにものかへのレクイエム (@東京都写真美術館) | kazu634 | 1969-12-31 | /1970/01/01/_55/ |
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昨日は恵比寿に行ったので、東京都写真美術館で行われていた展示を見てきました。森村泰昌の「なにものかへのレクイエム」です。森村さんはセルフポートレートという手法を用いて、名画・革命家・歴史的出来事などの写真を大胆に再解釈する手法をとる芸術家だそうです:
彼は、世に良く知られた西洋の名画(エドゥアール・マネ、ルーカス・クラナッハ、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ、レンブラント・ファン・レイン、レオナルド・ダ・ヴィンチ、フリーダ・カーロなど)になりきるにあたって、絵の構成や背景の物などに至るまで詳細なリサーチを重ね、ライティングやフェイスペインティング、合成やCGなども利用して人物配置、色調、光の位置などまで再現する。
ただし、リサーチの過程で画家の文化的背景や絵に描かれた人物などを自分なりに解釈した結果、完全な再現でなく大胆な変更を加えることも多い。また西洋絵画の中の人物に扮するにしても、森村自身が黄色人種で日本人で男性だという事実は変えることができない。たとえばマネの『オランピア』を再現するに当たり、彼は白人の娼婦と黒人の召使の二人の女性両方に変身したが、これは絵画の中の人種同士の主従関係を際立たせた。また、絵の中央に横たわり男性の欲望の視線にさらされるはずの女性に扮することで、観客の視線を混乱させた。また、小道具の絹の敷物の代わりに日本の着物、猫の代わりに招き猫を置くなどしている。これはわざと日本ローカルのものに置き換えることによる笑いを誘う側面もあるが、一方でローカルの物を普遍性のある名画の中の物と等価にしてしまうことにもつながる。また、着物と招き猫という組み合わせから、日本のステレオタイプである芸者への連想も可能である。
彼はこのように、一枚の写真のなかに人種・民族・ジェンダーなどの問題、作家や美術に対する愛情、美術史の過去から現在に至る研究の積み重ね、画集などのコピーを通じてよく知っている作品のイメージに対する揺さぶりなどを提起している。また、世界的に知られたオリジナルの作品のイメージや、作品内の小道具を代用する大量生産のまがいものやローカルな産品を、彼自身の肉体が入り込む一枚の写真に統合することで互いの距離をゼロにしてしまっている。オリジナルとそのコピーが混在して消費されている現在を表現している作家といえる。
三島由紀夫
3階に行くと印象的だったのが、三島由紀夫に扮して割腹自殺の場面を演じている映像でした:
三島由紀夫に扮してあつく檄を投げかけているのですが、最後に聴衆の方へカメラが写ると、そこにはまったく誰も聞いていないことがあらわになります。現代の公園で人々が往来している様子だけが映ります。
この様子がとても印象的でした。最近の政治への無関心みたいなものを伝えたかったのか?それとも、三島由紀夫の頃から政治への無関心は変わっていないと言いたいのか?考え始めると、むずかしいと思いました。
パンフレットとかチケットとか
東京都写真美術館の内部