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『容疑者 室井慎次』 kazu634 2005-09-22 /2005/09/22/_137/
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つれづれ

 読んでいる人の価値観を相対化するのが小説の条件と保坂和志は考えている、と下のエントリーで書いた。そのように書いているうちに、最近観た『容疑者 室井慎次』でも見ている人の価値観を相対化するような描写が行われていたことに気づいた。

 『踊る~』シリーズでは、わくさんと青島刑事といった世代間の交流や、男性と女性といった異なる立場にある人々がどのように感じているのかということを扱った作品であるとも捉えることができる。今回の『室井慎次』でも、田中麗奈演じる新米弁護士と室井さんという世代も性別も異なる二人の価値観というものが同時に提示されていた。「室井さんの過去」(注意:まだ映画を観ていない人は見ない方がいいです!)の捉え方も、二人の間では異なっていた。同じ事態を目の前にしていても捉え方は異なる、という当たり前のことが当たり前のように提示されているというのは注目すべきことなのではないだろうか。エンターテイメント作品だ何だと言われているけれど、「様々な価値観がこの世の中にはあり、世界は複雑なのだ」ということを多くの人に提示しているということだけを見ても、『踊る~』シリーズはもっと評価されてしかるべきではないだろうか。