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『武道的思考』で気になった部分 | kazu634 | 2011-01-24 | /2011/01/24/_1657/ |
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『武道的思考 (筑摩選書)』で気になった部分を載せておきます:
自分の弱さを認めることができるためにはある程度の強さが必要である。
ひとは定型から出ることはできない。だが、定型を嫌うことはできる。定型的な文章しか書けない自分に「飽きる」ことはできる。
「飽きる」というのは一種の能力であると私は思っている。それは自分の生命力が衰えていることを感知するためのたいせつなセンサーである。
「飽きる」ことができないというのは、システムの死が近づいていることに気がついていない病的な兆候である。
誰もそれについて最終的に責任を引き受ける気がないにもかかわらず、きわめて多くの人間の支持を得る意見には、身体実感という「担保」がない。「みんながそう言っている」ことを自分もただ繰り返している。「なぜ、あなたはそう言うのか?」と訊かれたら「あの人が言っていたから」と答えて、発言の責任は無限に先送りされて、どこかに消え失せる。
それが「世論」である。
すべての社会はそれぞれの仕方で「権力の交替」のためのシステムを設計図に書き込んでいる。「交替させなければならない」権力者は、その定義からして「バカ」であるか「邪悪」であるか、あるいはその両方である。したがって、彼らは自分たちが「交替させられるべきである」ということに気づいて、進んで身を引くということがない。それゆえ、持続可能な社会集団であるためには、すべての集団は「バカ」であったり「邪悪」であったりする権力者を、本人たちからのどのような頑強な抵抗があっても権力中枢から排除できるような「見えざる権力交替システム」を内蔵させている。そのような「見えないシステム」を組み込み忘れた社会集団は長くは生き延びられない。
その「幻想」がリアルタイムではどういうものであったのかを見ておかないと、どうしてそんなことをしたのかはわからない。そして、「どうしてそうしたのかがわからないこと」は、「どうしてそれをしたのかがわかる」ことよりも始末に負えない。それは繰り返される可能性があるからである。
人間は帰属する集団があり、そこで他者と共生し、協働し、必要とされ、豊かな敬意と愛情を享受していれば、パトリオットにはなっても、ナショナリストにはならない。
パトリオットは自分がその集団に帰属していることを喜び、その集団を律している規範、その集団を形成した人々を愛し、敬しており、その一員であることを誇り、感謝している。
家庭や会社の中でそれなりの敬意を得るには、具体的な行動によって集団に貢献することが要求される。
危機に臨んで動ぜず、平静な気持ちを維持できる人間は、そうでない人間より生き延びる確率が高い。
武道が想定しているのは危機的状況です。自分の生きる知恵と力のすべてを投じないと生き延びることができない状況です。
身体技法は、人間の身体能力のうち計量可能なものだけを選択的に発達させようと考える時に衰微する。
剣には剣固有の動線があって、人間は賢しらをもってそれを妨げてはならない。
「先駆的に知る力」とは「生き延びる力」のことである。それを殺すことはいわば緩慢な自殺に他ならない。
「楽屋」はある意味で「舞台」以上にタイトな空間である。道場で十分な気配りができない人間、道場に入る時になしうる限りの備えを怠る人間は、「本舞台」においても使い物にならない。
人間がその心身のパフォーマンスを最大化するのは、「私はいま宿命が導いた、いるべき場所、いるべき時に、いるべき人とともにいる」という確信に領されたときなのである。
それにしても、ナースというのは、いっしょにいて、ほんとうに気持ちの落ち着く方々である。目と目があったときに、彼女たちから最初に伝わるメッセージは”Don’t worry.”である。それは無言のまま、皮膚を通して、深く身体の奥にしみこんでくる。
あらゆる職業には「これくらいでいいだろう」というラインがある。九十九パーセントの人間は、そのラインを見つけると、そこに居つく。一パーセントの(もっと少ないかも知れない)人だけが、それを超える。「そこまで行くことなんか誰も君に要求していない。いまのままで十分じゃないか。これ以上自分に負荷をかける必要はないだろう」という静止の声を振り切って、歩み続ける。