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『MORI LOG ACADEMY〈5〉なんとなくクリスマス (ダ・ヴィンチブックス)』で気になった部分 kazu634 2011-05-02 /2011/05/02/_1682/
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メモ

MORI LOG ACADEMY〈5〉なんとなくクリスマス (ダ・ヴィンチブックス)で気になった部分です:

だいたい悩みの多くは、原因がはっきりわかっている。本人が一番よく知っている。どうすれば良いかも知っている。それなのに、本人の周囲にそれをさせない人がいる(ときには本人が抵抗している)というだけのことである。したがって、「解決」があるのではなく、「解釈」があるのである。

大きな組織、あるいは伝統のある組織では、合理化を訴える個人の主張はなかなか通らない。思うように効率化されない。すろと、そういった意欲のある人間は去っていく。そうでない人ばかり残るから、どんどん、そのままが続く、というメカニズムなのだ。そうはいっても、それが悪いわけでもない。守りたいものもあるろう。それに、ほんの少しずつでも前進はするので、最悪でもない。ただ、自分の人生の時間と比較して、とてもつき合っていられない、というだけのことだ。

第二世代が得意なことは「洗練」である。だから、第二世代によって、その分野は洗練される。今まであったものがより高度になり、不必要なものが削られ、また忘れかけていたものがブラッシュアップされる。それでも、洗練されたがゆえに、マニアックになり、マイナになり、望洋とした広がりや、本当の意味での新しさを失っていく。

つぎつぎと片づいていくが、つぎつぎに新しい仕事の依頼も来ている。けれど、あまりまだ引き受けられない状況。きっと引き受けられる状況になったときには、仕事の依頼なんて来ないのだろう。世の中とはそういったものである。だから、仕事があるうちに無理にでも引き受けて、忙しくしてしまう人が多いのではないか。忙しいのはありがたいことだ、との認識が一般的である。

日本では、古いものを古い姿のままで、単にこれ以上の劣化を防ぐだけの修理をすることが多い。しかし、欧米では、修理とは、新しくすることなので、色も真新しく、ぴかぴかにする。日本人は、古いことに価値を見出しているし、直したことがわからないようにしたい、と考える。欧米では、わからないようでは直す意味がないし、いつ直したのかを、あとからわかるようにすることが良い、と認識している。わざと古びたふうに真似て直すことは、誤魔化しであり、インチキである、との印象を持たれる。

流行に従っていれば、そのつど何が良いのか、と考える必要がない、というメリットがある。僕はその都度自分で考えたい。だから、人と同じことが嫌いなのだと思う。

自分の組織で活躍できない死蔵された才能は、それが活躍できるところへ移ってほしい。たとえそれが自分の組織にとって不利益になっても、そちらの方が嬉しい。人を育てたことがある人間ならば、そう感じるだろう。それができないのは、人を育てないで経営者になった人間である。

どうしてもそれが必要な才能ならば、それを買い取るために高額を投じる、という考え方は自然である。ギャンブルでもない。単なる経済原理であって、やましいこと、醜いこと、不自然なことは皆無だ。それなのに、日本人はまだまだブレーキをかけたがる。このブレーキの正体はなんだろうか?不思議である。

どんな組織にも無駄な部分はある。無駄をなくそう、と考えることは間違いではないけれど、無駄を無くさなければ、と焦る姿勢は、すでに前向きではない。ときどき立ち止まって、自分の衣服についている埃を払う、程度であれば良いが、やっきになってぱたぱたとはたき回っているようでは、傍から見ていても滑稽だし、その結果、無駄がなく綺麗になったとしても、立ち止まっていた時間は取り戻せない。無駄をなくすという行為自体が大いなる無駄だったという例は非常に多いのだ。

天才と呼ばれる人たちを何人か実際に知っている。天才がどんな定義なのか、人それぞれだし、僕も特に定義を持っているわけではない。ただ、才能がある人たちに共通することは、常に変化する、という点だと思われる。「おお、これは凄いな」と思ったときには、もう当人は別のところにいる。「ああ、それはね、昔のことだよ」と言われるのである。優れた才能とは、そういうものだ。したがって、期待に応えるようなものでは基本的にはない。こんなものをお願いします、と依頼して、期待どおりのものが返って来るとしたら、それは天才による「才能」ではなく、職人の「技術」によるものと思ってまちがいない。

世に出る仕事とは、それが素晴らしいものであるほど、幸運によって成り立っている割合が低い、と僕は思う。