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”The Age of the Essays”の翻訳まだまだ途中 kazu634 2005-08-13 /2005/08/13/_83/
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つれづれ

この投稿はPaul Graham氏によるエッセー、“The Age of the Essays”を翻訳しようと試みた断片である。

ようやく本題に入ってきたので、とても訳すのが楽しくなってきました。これで全体の半分超えたぐらいです。


エッセーができてからの年月

2004年9月

 高校で書かなければならなかったエッセー【注1】を覚えているかい?導入となる段落、理由を与える段落、結論。結論というのは例えば、『白鯨』【注2】に出てくるエイハブはキリストに似た人物だ、というものだ。

 うーん。だから、私は別な側面を示そうと思う。つまり、エッセーとは本当はどんなもので、どのように書くのかということについて示していこうと思う。少なくとも、自分がエッセーをどのように書いているのかということについて書こうと思う。

一番明白な違い

 本物のエッセーと学校で書かなければならないものとの一番明白な違いは、本物のエッセーは英文学についてだけものではないということだ。確かに、学校は生徒達に文章の書き方を教えなければならない。しかし、一連の歴史的出来事のために書くこと【注3】の授業は文学研究と混ざり合ってしまっている。そのためにアメリカ合衆国中で生徒達は、少ない予算しかない野球チームがどのようにしてヤンキースと闘いうるのかとか【注4】、ファッションにおける色の役割だとか、何がよいデザートを構成するのかといったことについて書くのではなく、ディキンズ【注5】におけるシンボリズムについて書いているのである。

 このことにより、書くことは退屈で的はずれのように見えざるを得なくなる。誰がディキンズの作品におけるシンボリズムなんか気にするだろうか?ディキンズ本人でさえも、色や野球のことについて書かれたエッセーにずっと興味を持つはずだろう。

 どうしてこのようになってしまったのだろうかその質問に答えるためには、ほぼ1000年の時を戻る必要がある。1100年頃に、ヨーロッパはついに何世紀にも及ぶ混乱を終え一息つき始めた。一度知的好奇心という贅沢をし始めると、ヨーロッパの人々は現在我々が「古典」と呼んでいるものを再発見した。その効果は、他の太陽系から来た生物に訪ねられた時のものにとてもよく似ていた。これら初期の文明【注6】はとても高度に洗練されていたので、それ以降の何世紀もの間ヨーロッパの学者の主な仕事は、ほぼすべての学問領域の中で古代ギリシア・ローマの人々が知っていたことを吸収することになったのである。

 この期間中、古代の書物を研究することが権威を得るようになった。書物研究が学者が行っていたことの本質のように思えた。ヨーロッパの学問に弾みがつくにつれて、古代の書物研究は重要ではなくなっていった。1350年までには、科学について学びたいと望んでいた学生は、自分の同時代でアリストテレス【注7】よりも良い教師を捜すことができるようなった。[1]しかし、学校は学問よりもゆっくりと変化した。19世紀になっても、古代の書物の研究は依然としてカリキュラムの重要な要素であった。

 次に述べる質問をする時が熟した:古代の書物研究が学問の妥当な研究領域であるのなら、現代の書物も妥当な研究領域ではないのか?それに対する答えは、もちろん、古典を研究する学問のそもそもの存在理由は一種の知的考古学であり、現代の書物の場合になされる必要があるものではない、というものだった。しかし、分かり切った理由から、だれもそうした答えをしようとはしなかった。考古学的な研究がほぼ終わっていたので、古典を研究していた学者達は、時間を無駄にしているというわけではないが、少なくともあまり重要ではない問題に取り組んでいたからである。

 このようにして現代の文学についての研究が始まった。当初はとても多くの抵抗があった。英文学という学科目における最初の講義は新しい大学で行われたらしい。特にアメリカの大学で、だ。ダートマス大学、ヴァーモント大学、アマースト大学、ユニヴァーシティカレッジが1820年代に英文学を教えた。しかし、ハーヴァード大学では、英文学の教授は1876年までおらず、オックスフォード大学では1885年までいなかったオックスフォード大学では、英文学の教授職を設けるよりも前に、中国についての教授職を設けていた[2]

 少なくともアメリカにおいて状況を決めてしまったのは、教授は研究だけでなく、教育も行うべきだとする考えであったように思える。この考えは博士号、学部・学科、そして近代的大学という概念とともに19世紀の後半にドイツから入ってきた。この新しい大学のモデルがジョンズ・ホプキンズ大学で1876年に採用されると、急速にアメリカ中に広まっていった。

 書くことは偶然の産物の一つだった。大学は長く文の構成法を教えてきた。しかし、文章の構成をどのように研究することができるだろうか?数学を教える教授には、もともとの数学【注8】を研究するように求めることができるし、歴史を教える教授には歴史についての学術的な論文を書くように求めることができる。しかし、修辞や文の構成法を教える教授には何を求めればいいのだろうか?そうした教授は何について研究するべきなのだろうか?最も関連性がある学問領域は英文学であるように思える。[3]

 このようにして19世紀後半に、書くことについての講義は英文学の教授により受け継がれていた。このことには二つの欠点があった。一つ目は、美術史研究者がよい芸術作品をつくることができなければならないことよりも多くの必然性はあるものの、文学についての専門家は良い文章を書ける必要がないということだ。二つ目は、英文学の教授が興味があるものが文学であるから、書くテーマが文学についてのものになりがちになってしまうということだ。

 高校は大学を模倣した。高校での惨めな体験の種は1892年に蒔かれた。その年に、全米教育協会は「公式に文学と文章構成法が高校の教育課程に統合するように薦めた」。[4]基礎学科【注9】のうちの書くという要素が国語【注10】という学科目に変わったのである。その奇妙な結果として、高校生達はいま英文学について書かなければならなくなっている。認識することさえなく、英文学の教授が数十年前に雑誌に投稿した論文を模倣したものを、高校生達は書かなければいけないのである。

 このことが当の生徒達にとって的はずれな課題に見えたとしても、驚くべきではない。理由は、私たちは今や実際に行われていることから三段階も離れていることになるからである。生徒達は英文学の教授を模倣し、英文学の教授は古典を研究する学者を模倣し、古典を研究する学者は、700年前には魅力的で緊急に必要とされる仕事であったものから生じた伝統を単に受け継いでいるに過ぎないのである。

弁護をしない

 本当のエッセーと学校で書かせられるものとの間の他の大きな違いは、本物のエッセーはある意見を主張し、そうしてからその意見を擁護するということを、しないことだ。その原則は、文学について書かなければならないという考えに似て、長く忘れられてきたエッセーの起源の知的名残りであることがわかる。

 中世の大学はほとんど神学校だったと、しばしば誤って信じられている。ところが実際は、中世の大学はずっと法律学校の性質を帯びていたのだった。少なくとも我々の伝統では、法律家というのは弁護士であり、論争のどちらの側にも立って、出来るだけ筋の通った主張をするように訓練を受ける。この精神が原因・結果のいずれなのかはわからないが、こうした精神は初期の大学に浸透していた。弁論術の研究、つまり説得力ある議論の技術は学部生の三つあるカリキュラムのうちの一つだった。その講義受講後、最もありふれた議論の形式は討論となった。このことは少なくとも、名目上は現代の論文における弁護という形で保たれてきた。ほとんどの人々は仮説と(博士)論文という言葉を交換可能なものとして扱うが、少なくとも本来は、仮説というのはある立場から説得力を持たせて書かれるものであり、(博士)論文というのはその立場を弁護するための議論なのである。

 ある立場を弁護することは法律上の議論では必要悪であるかもしれないが、それは真実へとたどり着く一番の方法ではない。このことを法律家たちは真っ先に認めるであろうと私は思っている。この方法では洞察力を働かせられないというだけではない。本当の問題は、問いを変えることが出来ないということにある。

 しかし、この原則は高校で書くように教えられるものの構造そのものに組み込まれてしまっている。トピックセンテンス【注11】とは、事前に選ばれた仮説であり、理由を与える段落とは議論的対立の中で放つ打撃のことであり、そして結論とは―アー、結論とはなんだろう?私は高校のとき決して結論が何であるか確信を持つことはなかった。第一段落で述べたことをもう一度言い直さなければならないようだったのだが、誰もわからないぐらいまでに別な言葉を用いて言い直さなければならないようだった。なぜ言い直さなければいけないのだろうか?しかし、この種の「エッセー」の起源を理解すると、どこから結論が生じたのかがわかるだろう。結論は、陪審員達にとっての結論となる言なのである。

 良い文章は確かに納得させるものであるべきだが、良い文章が我々を納得させるのは正しい答えに到達したからであって、議論を上手に行ったからではない。私がエッセーの草稿を友達に見せるとき、私が知りたいことは次の二つのことだ。一つ目は、どの部分が退屈かということ。二つ目は、どの部分が納得できないかということ。退屈な部分というのは大抵の場合削除することで直すことが出来る。しかし、私は読んで人を納得させられない部分をもっと明晰に議論することで直そうとはしない。必要なのは、そのことについて《読んでくれた人と》十分に話し合うことなのだ。

 控えめに言って、《エッセーの中で》私はひどい説明をしていたに違いない。その場合は、会話の中でより明確な説明を思いつかざるをえなくなる。その思いついた説明を、私はただエッセーの中に組み込むのである。《こうすることで、》私が述べたいことまで変えざるをえなくなることがとても多い。しかし、エッセーの目的とはけしてそれ自体で説得力あるものであることではない。読者が賢くなっていくにつれて、説得力あることと真実であることは同じものとなる。だから、賢い読者を納得させられれば、私は真実に近い所にいるに違いないことになる。

 議論をして論破しようと試みる種類の文章が、《法律家の文章としては》妥当な(あるいは、少なくとも不可避の)形式ではあるかもしれないが、その形式の文章をエッセーと呼ぶのは歴史的に見て不正確なのである。エッセーというのは別のものだ。

理解しようと試みること 

 本当のエッセーがどういうものであるのかを理解するために、今回は前回ほどさかのぼりはしないが、私達は再び歴史をさかのぼる必要がある。1580年に”essais”と自身が呼んだ本を出版したモンテーニュ【】にまでさかのぼる。モンテーニュは法律家たちが行っていることとはかけ離れたことを行っており、その違いはその書名の中に具体的に表されている。”essayer”というのは「試みる」という意味のフランス語の動詞で、”essai”とは試みである。【注12】エッセーとは、それを書くことで何かを理解しようと試みることなのである。

 何を理解しようとするのだろうか?君はまだそれを知らない。だから、君は仮説からはじめることが出来ない。理由は、君が仮説を持たず、そして決して仮説を持つことがないだろうからだ。エッセーは主張で始まるのではなく、問いで始まるんだ。本当のエッセーでは、ある立場に立ってその立場を弁護するということをしない。ドアが少し開いているのに気づいて、そのドアを開けて中に入り、中がどうなっているのかを見てみる、ということを《本当のエッセーでは》するんだ。物事を理解したいだけなのであれば、なぜ文章を書く必要があるのだろうか?ただ座って、考えていれば良いのではないか?えぇと、まさしくそこにこそ、モンテーニュの偉大な発見があったんだ。考えを表現することは、考えを形成するのを助ける。それどころか、「助けになる」というのは控えめにすぎる表現だ。私のエッセーの中で書かれたことの大半を思いついたのは、私が椅子に座ってエッセーを書いてからだった。だから、私はエッセーを書くんだ。

 学校で書くものの中では、君は理論上、読者に自分自身について説明しているにすぎないことになる。《だけど、》本当のエッセーでは、君は自分のために書くことになるんだ。声を出して考えていることになる。

 しかし、完全に自分のために書いているということにはならない。ちょうど人を自分の家に招くと部屋を掃除しなければならなくなるように、他の人が読むことになるものを書くことは十分に考えるよう要請する。だから、読者を持つことはとても重要になる。自分だけのために私がこれまで書いてきたものは、けして良いものではなかった。そうした文章は先細りになっていく傾向にある。私は困難にぶつかると、少数の曖昧な問いとともに結論を下し、書くことから離れて紅茶を飲みに行くことを知っている。

 出版されている多くのエッセーも同じようにして先細っている。とりわけ、時事解説誌の専属記者によって書かれた種類のエッセーがそうだ。外部の記者は、ある立場に立って、その立場を弁護する様々な論説を提供する傾向にあり、そうした論説は興奮を呼び起こし(、そしてあらかじめわかりきった)結論に向けてまっすぐに進む。しかし、専属記者は「偏りのない」ものを書かなければならないと感じている。そうした記者たちは評判の雑誌のために書いているのだから、とても議論の的となる問いで記事を始める。そうした問いから―というのも、記者たちは評判の雑誌のために書いているのだから―記者たちは前に進んでいくのだが、結局は恐怖で後ずさりすることになる。妊娠中絶に賛成か反対か?このグループはこのように述べており、あのグループは別なことを述べている。ただ一つ確かなことは、妊娠中絶は複雑な問題ということだ(けれど、私たちを怒らないでほしい。私たちは結論を出さなかったけれど)、というように。

河のように

 問いだけでは十分ではない。エッセーは答えを提出しなければならない。いつも提出しなければならないわけでは、もちろんない。時には、見込みがある問いから初めて、どこにもたどり着けないこともある。しかし、そうしたエッセーを発表してはいけない。そうしたエッセーは結論に導くような結果が得られない実験のようなものだ。発表するエッセーは、読者にそれまで知らなかったことを伝えるものでなければならない。

 しかし、伝える内容は重要ではない。その内容が面白いものである限りは。私は時々散漫に論じていると責められることがある。ある立場に立って、その立場を弁護するスタイルの文章では、それは欠点になるだろう。《というのも、》そうした文章では真実に関心を払ってはいないのだから。《そうした文章は、》すでにどこに向かっているのかを知っていて、そこに向かってまっすぐに向かい、障害の中をどなりちらして進み、湿原を超えていくことを何でもないことのように扱うのである。しかし、それはエッセーの中で君が行おうと試みていることではない。エッセーは、真実を求めるものでなければならない。もしエッセーがわき道にそれていかなければ、そのエッセーはうさんくさいものになるだろう。

 メンダー(別名メンデレス川)はトルコにある河だ。予想の通り、この河はいたる所で曲がりくねる。【注13】しかし、何の考えも無しに曲がりくねっているわけではない。メンダーの流れの向きは、海へと向かう最も経済的なルートなのである。[6]

 河のアルゴリズムは単純だ。どの段階においても、低い方へと流れていく。エッセーを書く人のためには、次のように言い換えることが出来る。面白いものへ向かって流れていけ、と。次に行くことが出来る全ての場所の中から、一番面白いものを選ぶんだ。人は河と同じぐらい先が見えないわけではない。【注14】私はいつも、何について書きたいのかを大体は知っている。けれど、自分がたどり着きたいと望んでいる明確な結論が何なのかを知らない。段落から段落へと、私は自分の考えが流れていくのに任せて《書いて》いる。

 この方法がいつもうまくいくとは限らない。時には、河のように、壁にぶつかることもある。そうした時、私は河がしているのと同じことをする。同じ道を戻っていくんだ。このエッセーのある地点で、私はある筋道をたどった後で考えが尽きてしまったことに気づいた。私は七段落分戻って、別な方向に向かってやり直したのだった。基本的に、エッセーとは一連の考えである―しかし、劇や物語の会話の部分が仕上げを受けた後の会話であるように、仕上げを受けた一連の考えである。本当の考えは、本当の会話に似て、誤ったゆがみに満ちている。《そうしたものを》読むことで、極度に消耗してしまうだろう。鉛筆で描かれた絵の上にインクを入れるイラストレーターのように、文を削ったり、付け加えたりして、中心の筋道を強調する必要がある。しかし、あまりに多くの部分を変えて、元の文章の自然さを失わせてはならない。

 間違いを犯すとしても、河と同じ間違いをするようにしよう。エッセーは参照する作業ではない。エッセーは特定の答えを求めて読むものではなく、そうした答えが見つけられないと騙されたと感じるものではないのだ。私は、事前に規定された道に沿って義務的にゆっくりと進むエッセーよりもむしろ、予期していなかったけれど面白い方向へと進んでいくエッセーを読みたい。

驚き

 それでは、何が面白いのだろうか?私にとっては、面白いとは驚きを意味する。


原注

  • [1] 私が念頭に置いているのはオレーム(1325-82)【注15】だ。しかし、年代を特定するのは困難だ。理由は、ヨーロッパの人々が古代の科学を吸収するのを終えたまさにその時に学問における急激な衰えが起きたからだ。原因は1347年の疫病かもしれない。というのは、科学上の進歩は人口曲線に符合しているからだ。
  • [2] 以下の文献を参照せよ。
    • Parker, William R. “Where Do College English Departments Come From?” College English 28 (1966-67), pp. 339-351. Reprinted in Gray, Donald J. (ed). The Department of English at Indiana University Bloomington 1868-1970. Indiana University Publications.
    • Daniels, Robert V. The University of Vermont: The First Two Hundred Years. University of Vermont, 1991.
    • Mueller, Friedrich M. Letter to the Pall Mall Gazette. 1886/87. Reprinted in Bacon, Alan (ed). The Nineteenth-Century History of English Studies. Ashgate, 1998.
  • [3]
  • [4]


訳注

  • 注1 英語の”essay”は日本語の作文とは異なり、ある主張を理由を添えて主張するという形式を取る。日本の作文とは別のもので、日本の高校では小論文などと言われ区別されている。
  • 注2 メルビルの小説。Moby Dick。1851年刊。巨大な白鯨モビー・ディックに片足を奪われたエーハブ船長は、復讐のため世界の海を巡り、ついに発見した宿敵とともに海底に沈む。善と悪の対決等、深い象徴性を秘めた叙事詩的大作。発表当時は不評だったが、1920年代以後評価が高まる。
  • 注3 原文では”writing”「書くこと」・”essay”「エッセー」・”English composition”「文の構成法」と使い分けられている
  • 注4 『マネーボール』のことを言っているのだと考えられる。
  • 注5 イギリスの小説家。ビクトリア女王から貧しい庶民の子どもまでが愛読した、19世紀最大の国民的文豪であるばかりでなく、20世紀になっても各国語に翻訳されるうえに、ラジオドラマ、テレビドラマ、映画、ミュージカルなどのメディアにまで浸透している。
  • 注6 つまり、古代ギリシア・ローマ文明
  • 注7 〈万学の祖〉として、その業績は広範、後世への影響はプラトンと並んで甚大である。学の全分野で今日まで用いられる術語・概念・方法の多くがアリストテレスに発する。
  • 注8 実際に数学者が研究していることからすれば、小・中・高校・大学で学ぶ数学は一段階も二段階も実際の数学からはかけ離れたものだ、という考えを前提にしている。
  • 注9 日本で言う「読み・書き・算術」のこと
  • 注10 原文では”English”。言うまでもなく、アメリカ人にとって「英語」とは日本人にとっての「国語」である。
  • 注11 段落などで中心となる考えを表す文のこと。第一文であることが多い。
  • 注12 フランス語も英語と同じように、名詞の語尾に-sを付け加えることで複数形を作る。つまり、”essais”とは「複数の試み」ということである。
  • 注13 「メンダー」は英語では”meander”と綴り、その意味は「曲がりくねる」であるため。
  • 注14 河は海へと向かっていることを知らずにただ低い方へと向かっており、それに対して人はある程度までエッセーで何を述べたいのかを意識してエッセーを書くということを述べたいのだと考えられる
  • 注15 フランスの司教。アリストテレスを研究。経済学の著作もある。