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”The Age of the Essays”の翻訳(断片) | kazu634 | 2005-08-14 | /2005/08/14/_85/ |
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この投稿はPaul Graham氏によるエッセー、“The Age of the Essays”を翻訳しようと試みた断片である。
驚き
それでは、何が面白いのだろうか?私にとっては、面白いとは驚きを意味する。Geoffrey Jamesがこれまで述べてきたように、インターフェース【注1】は最小限の驚きという原則に従うべきだ。それを押したら機械を止めるように見えるボタンは、機械を止めるものでなければならない。逆に、スピードを上げるのではなく。エッセーは、この全く逆を行うべきだ。エッセーは、最大限の驚きを目標とすべきなのだ。
私は飛行機に長時間乗ることをおそれているので、他人の経験を通じて旅行を楽しむことしかできない。友人が遠い場所から帰ってきたとき、私が友人に何を見てきたのかと聞くのは、ただ礼儀上そのようにしているのではない。私は本当に知りたいんだ。そして、友人から情報を得る一番の方法は、何に一番驚いたのか尋ねることだと気付いた。期待していたのと、旅行した土地はどのように異なっていたのか?これはきわめて有益な質問だ。注意して見ていなかった人にさえその質問をすることが出来るし、その質問をすることで、そうした人たちが記憶していたとさえ知っていなかった情報を引き出すことが出来るだろう。
驚きは知らなかったことというだけでなく、自分が知っていると考えていたことに反することでもあるのだ。だから、驚きというのは手に入れることが出来る事実の中でも最も価値ある種類の事実である。そうした事実は単に健康的であるだけでなく、すでにこれまで食べてきたものが持つ不健康にする影響を中和する食べ物に似ている。
どのようにして驚きを見つけるのか?そこにこそ、エッセーを書くことの仕事の半分がある(後の半分は自分の考えを十分に表現するということだ)。コツは、自分自身を読者の代理として使うということだ。何度も考えてきたことについてだけ書くべきなんだ。その話題についてこれまでずっと考えてきた人を驚かすものは、きっとほとんどの読者を驚かすことになるだろう。
例えば最近書いたエッセーで私は、コンピュータープログラマーを判断する方法は一緒に働くこと以外にはないのだから、総合的に誰が一番のプログラマーなのか誰もわからない、と指摘した。私がそのエッセーを書き始めた時にこのことに気付いてはおらず、今でさえもこの考えのことを幾分奇妙だと思っている。そうしたものこそが、探し求めているものなんだ。
だから、エッセーを書きたいのであれば、次に述べる二つの材料が必要になる。これまでたくさん考えてきた少数の話題、そして予期しなかったものを探し出す能力。
何について考えるべきなのだろうか?私の推測では、その問いは重要ではない―つまり、そのことに深く関わっていれば、何でも面白いものになり得るのではないだろうか。あり得そうな例外には、ファストフード産業で働くことのように、意図的に一律にしてしまう物事が考えられる。振り返ってみると、バスキン-ロビンズ【注2】で働くことについて何か面白いことがあっただろうか?
しかし、客にとって色がどれほど重要かということは面白かった。ある年齢の子供たちはケースを指し示して、黄色のアイスが欲しいと言う。その子供たちはフレンチバニラとレモンのどちらが欲しかったのだろうか?子供たちはポカンとしてこちらを見てくるだろう。子供たちは黄色のアイスが欲しいのだ。一年を通じて一番売れるPralines’n’ Creamがなぜ客に訴えかけるのかという謎がある。そして、父親と母親が子供たちにアイスを買うときの振る舞いの違い、というのもある。父親は慈悲深い王様のように大きなアイスを子供に与え、それに対して母親は悩んで、子供たちに言われた通りのものを買う。だから、そうだ、ファストフード産業にさえもエッセーのテーマになりうる材料があるように思える。
けれど、私は勤めていた当時はそうしたことに気付かなかった。16才の時、私は岩と同じ程度しか注意深くはなかった。私がその当時に実際に自分の目の前で起こったことから見て取ることが出来るものよりも多くのことを、今の私はその当時の記憶から引き出すことが出来るのだ。
- 注1 – 異種システム間や機械としてのコンピュータと人間(使用者)とを仲介するプログラムや装置;その規格全般。例えば、マウスとかキーボードのこと。
- 注2 – アメリカでアイスクリームを作っている会社