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『蝿の王』 | kazu634 | 2005-09-12 | /2005/09/12/_117/ |
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サークルの方で、書評誌の出版をしているので、その草稿を載せておきます。最近は忙しすぎて、会議に参加できていないが原稿だけ入れるようにしよう…と決意してみるが続くだろうか。。。
2005.09.06:O田くんのコメントを受けて、書き直す。(Thanks to O!)
『蠅の王』
ウィリアム・ゴールディングの『蠅の王』を読んだ。この小説の中では、子供たちだけで無人島で生活をすることになる。だが、その無人島生活は燦々たるものになる。この小説は、「子供たちだけで社会を構成したらどうなるのか?」という問いに対する一つの答えなのだろう。
子供たちの社会というのは残酷だ。ニュースを見てみれば、いじめによって生徒が自殺をしたなどという報道も時折目にする。この『蠅の王』では、6~12才の少年たちが無人島に不時着し、自分たちだけで生活をしなければならなくなる。最初は、文明的に振る舞い、どうすればよいかを考えて行動していた。例えば、救助をしてもらえるように烽火を上げよう、だとかというように。だが次第に、彼らは好きなように振る舞い始める。決められた約束事は無視され、皆が皆バラバラに行動する。さらに、烽火の火を絶やす。
筋道立てて考え、全体の利益のために現在の苦しさを堪え忍ぶという考えがそこには見いだせない―といっても、それが子供だと言われれば、それまでのことだが。好き勝手振る舞う子供たちの一団をジャックという少年が束ねているのだが、そのジャックは烽火を守ろうとする隊長のラーフに反旗を翻す。ジャックが率いる集団は、完全に理性を失ってしまう。筋道立てて、どうすれば自分たちが助かるのか―このような問いを立てることが出来ないでいる。
こうした状況で、野生へと戻っていくジャックたちの手でついに死人すら出てきてしまう。誰も彼らを止めることが出来ないでいた。
『蠅の王』に出てくる子供たちの社会には、拠り所とする価値観というものが欠けている。何が何でも守らなければならない規則という概念が欠けている。そして、ただひたすらに自分たちがしたいことをやろうとする。彼らが共有する唯一のものは、「やりたいことをしたい」という本能的な欲望だけなのかもしれない。だからこそ、烽火を絶やしてしまえるのだろう。【注1】
なぜこのようなことが子供の社会で起きたのだろうか?子供たちが受けている教育が問題ではないか、という指摘をポール・グラハム【注2】はしている。学校で教えられていることは、実際に大人になってやらなければならないことから何段階も離れている偽物なのだ、というのである。打ち込める何かであればいいのに、それは到底打ち込めそうにもないのだというのだ。そうしたまがい物を強制的にやらされれば、精神が病んでいくのではないか、というのである。子供たち、少なくとも中学生の一部や高校生以上の子供たちにとっては、だ。
この『蠅の王』で描かれる年上の登場人物たちは、自分たちにとって最善の手は何か考えることを放棄している。これは、まがい物を強制的に行わされ、そして自分たちの意志では何も行えないようにさせられている子供たちからすれば、どうしようもなく刷り込まれてしまう態度なのではないだろうか。そして、年少の子供たちはそもそもそのようなことを考えようともしていない。遊ぶことが彼らの仕事になっている。
教育というものを子供を社会に慣らしていく過程だと捉えると、現在の教育は社会で実際に行われていることから何段階も離れたことを教えていることになるのではないか。これでは子供を社会に慣らすことは出来ないのではないだろうか。
唯一の救いがあるとすれば、迷いながらも烽火を上げ続けようとしたラーフがいたという事実なのではないだろうか。ラーフの存在は、子供たちがこのような行動を起こしたのは教育という刷り込みの結果であることを示しているのだと思う。こうした状況を変えることが出来る、ということを示しているのではないだろうか。