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日本英文学会終了 | kazu634 | 2006-05-21 |
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英文学会2日目は、まずは「Donne【注1】とGeorge Herbert【注2】の類似点について、via mediaという観点で説明がつく」という趣旨の発表を聞いたのですが、肝心のvia mediaというのが何なのかを遅刻したために聞けず(V先生にばったり遭遇して立ち話をしてた(^_^))、中途半端な理解のままで終わってしまいました。
二つめの発表は、先輩のS先輩の発表でした。趣旨としては、「ハーディー【注3】の『テス』という作品についてはこれまでの研究はテクストの外部からセクシャリティーについての言及がなされてきたが、テクストを丹念に読み込むことで同じようなことがわかる」ということを述べていました。身内びいきというわけではありませんが、自分が今回の日本英文学会の発表で聞いた中ではI先生の次にすごい発表だった思います。
三つ目の発表は、イシグロ・カズオという日本生まれ、イギリス育ちの作家の語りについてでした。語りの問題に興味がある自分は飛びついたのですが、新作のNever Let Me Goでは、self-decetiveなunreliable narratorであることをやめ、別な語り手を採用することにした、という趣旨のイシグロ・カズオのインタビューの引用ぐらいにしか自分は反応ができませんでした。まだまだ感度が低いなぁ…
その後は、特別シンポジウム「これでいいのか英語教育」でした。国連事務総長をなさっていた明石康さんやうちのH先生、斎藤兆史先生、最近の「小学校から英語を勉強させるべきかどうか」という論争で前線にたっている大津由起夫先生・鳥飼玖美子先生が論者でした。やはり、英語教育という観点からはこれまでの訳読というスタイルを守ることの方がメリットが大きい、ということのようでした。日本英文学会としては、実用英語重視の風潮から英文学をやっている研究者の就職が制限されている現状をどうにか変えたいという願いがあるようです(←この風潮は何とかしてくれ!!)。とても興味深いシンポジウムでした。
またシンポジウムの席上で、先輩方に出会いました。そしたら、別な先輩も紹介していただきました。自分と同じJoseph Conradをやっていて、非常に優秀だという噂をかねがねうかがっていた、I先輩です。いやぁ、今ではうちの研究室で語り継がれている存在の人に出会ってしまいましたよ。自分はこの人と常に比べられていくことになるのだと思われます…。
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– 『世界大百科事典』によれば:
イギリスの詩人、牧師。父はロンドンの富裕な鉄商人、母はトマス・モアの血をひくローマ・カトリックの名門であった。オックスフォード、ケンブリッジ両大学に学びながら、どちらも卒業していないのは、旧教信仰のためであったとされる。ロンドンの法律院で法律を学ぶかたわら、若い宮廷人たちと交わり、自由奔放な詩を書いてもてはやされた。リベルタン(自由思想家、放蕩者)と呼ばれる詩風の、恋愛詩や風刺詩である。1597年国璽尚書トマス・エジャートン卿の秘書となり、その家庭に住みこみ、宮廷人としての第一歩を踏み出したかに見えたが、1601年、主人の姪の17歳の少女アン・モアと秘密に結婚。彼女の父に告訴されて投獄の憂目にあい、秘書の職も解任された。このあとの十数年は、才能をもてあましつつ、友人たちの情けにすがる徒食の生活であり、苦難の時代であったが、後世彼の詩人としての名声を不動のものとした恋愛詩の幾編かは、このアンとの恋愛および結婚の前後の産物であったろう。はげしく劇的な情熱が強じんな知性とからみあい、のちに〈形而上詩〉と呼ばれることになる、不滅の詩的表現であった。これらの詩は、生前には手稿として回覧されるにとどまったが、死後《恋愛小曲集》(1633)として出版された。生前の出版としては《自殺論》(1608)、《偽殉教者》(1610)、《イグナティウスの秘密会議》(1611)などの散文による宗教論、またおそるべき奇想を積み上げつつ当時の宇宙誌を展開した《第1、第2周年追悼詩》(1611‐12)などがある。
宮廷での栄達を望むこと久しかったが、国王ジェームズ1世の強いすすめもあって、1615年に英国国教会の牧師となる。17年には愛妻アンを失ったが、彼の説教者としての名声は急速にたかまり、ロンドンのセント・ポール大聖堂の司祭長として令名をはせた。彼の説教も、若いころの恋愛詩に似て、情念と知性の暗い錯綜や、〈形而上的〉奇想を特色とする。40年以降、何段階かに分けて《説教集》が出版された。彼の流れをくむ詩人たちを〈形而上詩人〉と呼ぶが、その作風も17世紀後半の王政復古期には時流にとり残されてしまった。しかしそれは20世紀前半の英米の詩的・批評的風土と合致し、T. S. エリオットらの手によってめざましく復活した。一時はブーム現象すら示したが、今日では鎮静している。しかし英詩の伝統の一つの極を示す詩人として、特異な評価はゆるがない。
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– 『世界大百科事典』によれば:
イギリスの宗教詩人。ペンブルック伯家につながる貴族の家に生まれ,ケンブリッジ大学卒業。学識と人柄を認められてそのまま大学に残り,各方面に知己を得て,一時は宮廷での立身も考えたが,思うところあって英国国教会に入った。1630年にウィルトシャーのベマートンという村の教区牧師になって,残りの短い歳月をその教区民のためにささげた。彼の家柄や学識とくらべあわせて,注目すべきことである。その間,彼は敬虔な思索瞑想にふけったらしく,その結果はすぐれた宗教詩や宗教的散文となってこの世に残った。とりわけ《聖堂》(1633)の題の下に集められた160編の詩は,措辞の清朗にして明澄なこと,思想の真摯(しんし)にして純一なことは,特筆するに足る。〈形而上詩人〉ダンが母の親しい友人であり,しかも英国国教会の先輩牧師であったこともあって,〈形而上詩〉の詩風は顕著に見てとれる。いわゆる〈奇想〉や〈機知〉は,とりわけ目だつ特徴である。しかしダンの博学な晦渋さはなく,むしろ日常卑近の事例から思いがけず機知に富んだ比喩を選んだりする。しかもそれが熱烈な信仰の表現と結びつく。この詩風がその時代の一部に強い影響を与えたのは,信仰が思想的・政治的対立抗争の道具に堕してゆく傾向への反動であっただろうか。R. クラショーや H. ボーンは,形而上派的宗教詩人としてのハーバートの後継者であった。
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– 『世界大百科事典』によれば:
イギリスの小説家,詩人。イングランド南西部,通常ウェセックス地方と呼ばれるドーセット州ドーチェスター市の近くで生まれた。父は建築家,母は文学の素養のある婦人だった。若いころは父の職業を継ぐべく建築の勉強にはげみ,1862年ロンドンに出て,建築懸賞論文で賞を得るなど,その才能をあらわした。しかしロンドンの生活を嫌ったために,建築界での出世をあきらめて故郷に帰り,文学を一生の仕事にしようと決意した。68年匿名で《貧民と貴婦人》という長編小説を書き,ロンドンの出版社に送ったところ,当時文壇で重きをなしていた G. メレディスの目にとまった。メレディスはこの小説があまりに過激な社会思想に色づけられ,出版社から排斥されるから,もっと筋立てのおもしろさをねらった作品を書いたほうがよい,とハーディに忠告した。この忠告に従って次作《非常手段》を書き,出版社に受け入れられ71年処女作として公刊された。
以後ハーディの長編小説が次々に発表され,好評をもって迎えられた。《緑の木陰》(1872),《狂乱の群れを離れて》(1874),《帰郷》(1878)などが初期の代表作である。《カスターブリッジの市長》(1886),《テス》(1891),《日陰者ジュード》(1896)など後期の代表作では,小説のプロットの組立てがますます精緻巧妙になり,建築家としての才能が構成に発揮されている。しかし,彼の小説の特徴は単にその構成の巧みさのみにあるのではない。彼はショーペンハウアーの悲観主義哲学に共感し,人間の自由意志を超えた宇宙意志の存在を信じ,運命の力によって人間が翻弄される悲劇,つまりギリシア古典悲劇と同じ主題を小説の形で表現した。同時に作品の中で既存の道徳・宗教に鋭い批判を加え,結婚制度の否定や新しい男女の性関係まで大胆に扱ったため,保守的な読者からの抗議が相次ぎ,《日陰者ジュード》以後長編小説の執筆を断念してしまった。
しかし,これでハーディの文学者としての生命が絶たれたわけではない。以後は短編小説,ナポレオンを扱った詩劇《覇王》全3部(1903‐08),数多くの抒情詩を発表し,詩人としても高い評価を受けた。1910年には国から勲章を授けられ,80歳の誕生日には全文壇から祝辞が寄せられた。このように国家的名士となっても,彼はロンドンに移住することを拒み続け,生れ故郷ウェセックス地方にとどまった。のみならず,彼のすべての作品はウェセックス地方を舞台とし,現実の地名を架空の地名に書き改めたウェセックス地方の地図が,彼の文学によって形成された。彼の作品の主人公は人間ではなく,彼の愛する土地の霊であった。死後,遺体はロンドンのウェストミンスター・アベーに葬られたが,彼の心臓は遺言により故郷に埋められた。日本でもハーディの愛読者は多く,〈日本ハーディ協会〉がある。