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『ゲド戦記』原作者Ursula K Le Guinの映画に対するコメント | kazu634 | 2006-08-15 |
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映画『ゲド戦記』に対する原作者のコメントが、原作者であるUrsula K Le Guinのサイトで公開されました。読んでて、背筋が冷たくなってきました。非常に丁寧にLe Guin氏はコメントなさっているのですが、その内容は怖いです…以下、引用:
全体としては、エキサイティングです。ただしその興奮は暴力に支えられており、原作の精神に大きく背くものだと感じざるをえません。
全体としては、思うに、一貫性に欠けています。これはたぶんわたしが、まったく違う物語の中で、自分の書いた物語を何とか見つけ、追っていこうとしていたせいでしょう。わたしの物語と同じ名前の人物が登場するのに、まるで違う気質と経歴と運命を負っているため、混乱してしまったのです。
もちろん映画は、小説を正確になぞろうとすべきではありません――両者は異なる芸術で、語りの形式がまったく違っているからです。大きな変更が生じるのは当然でしょう。そうは言っても、同じ題名を冠した、40年にわたって刊行の続いている本を原作にしたと称するからには、その登場人物や物語全体に対して、ある程度の忠実さを期待するのは当然ではないでしょうか。
アメリカと日本の映画製作者はどちらも、名前といくつかの考え方を使うだけで、わたしの本を原作と称し、文脈をあちこちつまみ食いし、物語をまったく別の、統一性も一貫性もないプロットに置き換えました。これは本に対する冒涜というだけでなく、読者をも冒涜していると言えるのではないでしょうか。
映画の“メッセージ”も、やや不器用に思えます。しばしば原作から引用してはいるものの、生と死、均衡などの言葉が、原作の登場人物やその行動から導かれたものになっていません。意図はどれほどすばらしくても、物語や登場人物の内面を反映していないのです。“苦労して身につけた”ものではないため、説教くさいだけになってしまっています。アースシー・シリーズでも、とくに最初の3巻では金言めいた文章がありますが、これほどあからさまではないと思います。
原作の道徳的な意味合いも、映画ではあいまいになっています。たとえばアレンの父親殺しは、映画では動機がわからず、恣意的なものに見えます。影/分身に命じられたという説明はあとで出てきますが、説得力がありません。なぜ少年は2つに分裂したのか? 手がかりは何もありません。これは『影との戦い』から採られたエピソードですが、原作ではゲドがいかにして影につきまとわれるようになったか、その理由も、最後には影の正体も明らかになります。わたしたちの心の闇は、魔法の剣の一振りで追い払えるようなものではないのです。
しかし映画では、邪悪さはわかりやすく悪党という形で外部化され、魔法使いクモが殺されて、すべての問題は解決してしまいます。
現代のファンタジー(文学でも政治でも)では、いわゆる善と悪との戦いにおいて、人を殺すというのが普通の解決法です。わたしの本はそうした戦いを描いてはいませんし、単純化された質問に対して、単純な答えを用意してもいません。
この原作者のコメントを読んだときに思い浮かんだのは、うちの教授が専門とするDickensの短編集を新たに翻訳したものの出来があまりにひどい(原文に全く書いていないこと、文脈から想像すらできないようなことを、自分勝手にでっちあげてしまっているような翻訳だった)ために、その翻訳を批判している文章を読んだときのことでした。うちの教授はDickensの世界的な研究者なので、その人に批判されるということは、その翻訳家は文芸翻訳をもう一切任せてもらえないのでは…と考えて、ちょっとチビったのを覚えています。