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ベンチャービジネスのためのアイディア(”Ideas for Startups”の翻訳) | kazu634 | 2006-09-11 |
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誰もまだ手を出していないようなので、少しだけやってみました。日→英の翻訳があるので、不定期更新になりそうです…(終了済み)。
Paul Grahamが”Great Hackers”を実際に人の前で講演した音声がネットで入手できるようです。それで、その音声を聞いてみると結構フランクな印象を受けました。このエッセーも人前での講演から書き起こされています。Paul Grahamが主催したStartupsのための講演の原稿を基にして書かれたエッセーであり、聴衆として新たに起業しようとするハッカーが想定されています。
はてなブックマークで取り上げられていた、以下の文章の内容と重なる部分が多いように思いました。
なお、”startup”は日本語で言うところの「ベンチャービジネス」に相当するのだと思います。理由としては二つあります。
- このエッセーのオーディエンスには「これから起業しようとするハッカー」が想定されている。
-
「ベンチャービジネス」の定義は『経済・ビジネス用語辞典』によると、
創造力をもとに,冒険的な新規事業を経営すること。しいて訳せば「冒険的独立事業」となろう。自分の能力をより発揮するため,組織から飛び出し(スピン・アウト),革新的な経営者として前記の冒険的独立事業を経営する。創造力,アイデア開発力などをもとにする事業であるから少数精鋭主義をモットーとする。したがって,従業員の数は普通,10名前後。
とある。
ハッカーによって運営される会社は、革新的な技術・製品を生み出す冒険的な事業になるはずだと考えられるので、”startup”の訳語には「ベンチャービジネス」をあてました。
更新履歴
- Feb 22:Upwindの途中まで終了
- Mar 2:Upwindを終わらせる
- Mar 8:Doodlingまで終了
- Mar 11:Problemsまで終了
- Mar 14:Wealthの途中まで終了
-
Mar 21:Wealthまで終了。
ただし途中不明点あり。皆様からのsuggestionをお願いいたします(__)(Thanks! naoya_tさん) - Mar 24:後はNotesを訳すのみです
- Mar 25:とりあえずNoteも訳し終わる。後は皆様のsuggestionをお待ちしております。
- Sep 7:注1に参考となるサイトを発見したので書き加える。
- Sep 11:anonymousさんより指摘していただいた箇所を訂正・ここでリンクの不備をコメントしていただいたので訂正
ベンチャービジネスのためのアイディア
2005年10月
(このエッセーは2005年のStartup Schoolで行った講演から生まれた)
どうすれば、ベンチャービジネスのためのすばらしいアイディアを得られるのか?おそらく、それが私に尋ねたい質問の筆頭だろう。
だが、私は別な質問をすることでそうした質問に答えたい。何でベンチャービジネスのためにアイディアを思いつくことを困難なことだなんて思うんだい、って。
その問いはくだらない質問のように思えるかもしれない。何で困難だと考えるのかって?そのことができないのであれば、そのことは困難なことになるんだ。少なくとも、そのことができない人にとっては。だって、そうだろ?
うーん、そうではないのかもしれない。大抵の場合人々が言いたいことは、アイディアを思いつかないということではなく、アイディアを一つも持っていないということなんだ。アイディアを一つも持っていないことと、アイディアを思いつかないことは同じことではない。そんな風に言う人が一つもアイディアを持っていない理由は、そうした人たちがこれまでにアイディアを生み出そうとしたことがないからであるかもしれないんだ。
私は、こうしたことがしばしばあると考えている。人々はベンチャービジネスのためのアイディアを思いつくことが非常に困難だと信じている―それは非常に困難であるに違いない―だから、人々はアイディアを生み出そうと試みることをしないんじゃないか、って私は考えているんだ。そうした人たちは、アイディアというのは奇跡に似たもので、唐突に思いつくか、あるいは思いつかないの二者択一のものなんだって、決めてかかっているんだ。
私は人々がこのように考える理由について別な意見も持っている。そうした人々はアイディアを過大評価している、というものだ。そうした人たちはこんな風に考えるんだ。新規に企業を興すことは非常に優れた初期の考えを実施するということに過ぎず、成功した新興企業は100万ドルの価値があるのだから、すばらしいアイディアも100万ドルの価値あるアイディアに違いないんだ、ってね。
ベンチャービジネスのためのアイディアを思いつくことが100万ドルの価値あるアイディアを思いつくことと等しいのであれば、もちろんそれは困難なことのように見えるだろう。あまりに難しすぎて、わざわざ思いつこうと試みることすらしないことだろう。直感から、そんなに価値あるものが誰かが発見するためにそこいらに転がっているわけがないと思うからだ。
実際は、ベンチャービジネスのためのアイディアというのは100万ドルの価値あるアイディアではないんだ。ここに一つ実験があるから、それを検証してみてほしい。その実験というのは、ただベンチャービジネスのためのアイディアを売ってみるということだ。市場よりも早く展開するものは何もない。ベンチャービジネスのアイディアを扱う市場が存在しないという事実は、そうした市場に対する需要が存在しないということを示唆していることになる。そのことは、狭い意味で言えば、ベンチャービジネスのアイディアは価値がないということだ。
問い
本当のことを言えば、ほとんどの新興企業は初期のアイディアとは似ても似つかないことを結局行っているんだ。こんな風に言う方が真実に近いんじゃないかと思う。つまり、初期のアイディアの主要な価値というのは、それがダメになるのに気づく過程で、本当のアイディアを思いつくことにあるんだ、というように。
初期のアイディアは単なるスタート地点に過ぎない―それは詳細な計画なんかじゃなくて、問いなんだ。このように表現された方が役に立つことだろう。共同で作業できる、web-basedなスプレッドシートをつくりたいって考えていると言う代わりに、「web-basedなスプレッドシートをつくれるだろうか?」って言うんだ。文法的にちょっといじくってやると、情けないくらい不完全なアイディアが探求するのに有望な問いへと変わる。
そうすることで、本当に違いが生じる。なぜなら、断定形は問いがしないような方法で反論を引き起こすからだ。「web-basedなスプレッドシートをつくろうと思うんだ」なんて言ったとしたら、あら探し屋―頭の中にいるもっとも危険な奴―が即座に「Microsoftと戦うことになる」、「ユーザーが期待するような種類のUIを提供なんてできっこない」、「ユーザーはサーバー上にデータを置きたがらない」なんて答えるんだ。
それに対して問いは、それほど難しいようには思えない。問いは、web-basedなスプレッドシートをつくってみて、どこまで行けるか見てみよう、となる。そして誰もが知っているように、こんな風に挑戦してみると、何か便利な物をつくることができる。ひょっとすると、結局のところ作るのは、スプレッドシートでさえないかもしれない。ひょっとするとそれは、まだ名前さえないスプレッドシートに似た共同で利用できる新しいツールのような物になるかもしれない。それに向けて着実に実行していくことがなければ、そうしたような物を思いつくことすらなかったことだろう。
ベンチャービジネスのためのアイディアを問いとして扱うことで、君たちが探している物が変わってくることになる。アイディアが詳細な計画であれば、そのアイディアは正しくなければならない。しかし問いだとすれば、誤っていてもいいことになる。その誤り方がより多くのアイディアを誘発する限りは。
アイディアが誤る一つの貴重な方法は、不完全な解決策に過ぎないものにすることだ。誰かがあまりに大きすぎるように見える問題に取りかかっている時、私はいつもこんな風に尋ねることにしている。その問題の部分集合を解決し、そうして徐々にそこから広げていくような方法はないだろうか、と。その方法は一般的にうまくいく。1980年代の様式の人工知能やC言語のような極大に捕らわれているのでもなければ。
風上
これまでのところ、問題を100万ドルの価値あるアイディアを思いつくことから誤った問いを思いつくことへと煮詰めてきた。それならそれほど難しいようには見えないだろ?
そのような問いを生み出すためには、二つのものが必要になる。(1)有望な新技術に通じていること(2)正しい種類の友人がいること。新技術はベンチャービジネスのためのアイディアがつくられる材料であり、友人との会話はそれらの材料が調理されるキッチンなのだ。
大学はその二つをどちらも持っていて、だからこそ多くのベンチャービジネスが大学から生まれるんだ。大学から生まれるベンチャービジネスは新規の技術がたっぷりと詰まっている。なぜなら、そうしたベンチャービジネスは研究の成果を製品化しようと努めようとし、そして新しいものだけが研究として重要とされるからだ。そして、そうしたベンチャービジネスには、共に考えを共有するのにまさしくうってつけの種類の人々がたくさんいるんだ。つまり、ただ優秀というだけではなくて、間違いに対して柔軟な考えをする他の学生が。
大学とは正反対に誤った考えを最も生み出しそうにない場所というのは、給料はよいが退屈な大企業の仕事ではないかと思う。大企業というのは新技術には偏見を抱いている。そして、そこで働いている人は考えを共有するのにうってつけとはいえないのではないかと思う。
高校生のために私が以前書いたエッセーで、経験則は風上にいる―つまり、将来の選択肢を最大にするものに取り組む―ことだと書いた。この根本方針は大人にだって当てはまる。といっても、こんな風に言い換えねばならないだろうけれど。できるだけ長く風上にとどまれ、そして子供のためにお金を払う必要が出てきたときに、それまで蓄えた潜在的な力をお金に換えろ、というように。
みんなが意識的にこうしたことを理解しているとは思わないが、銀行のためにJavaのコードを大量につくるような、風下の仕事の給料がよい理由の一つは、まさしくそうした仕事が風下だからだ。その種の仕事の市場価値が高いのは、そうした仕事が将来への選択肢をより少なくしてしまうからだ。興奮するような新しいことに取り組ませてくれる仕事は、給料があまりよくないものだ。なぜならその代償の一部が、その仕事をすることで身につける新しい技術という形で存在するからだ。
大学院は、そうしたスペクトラムの上では大企業でのコードを書くという仕事の真逆の位置にある。給料は少ないが自分の時間の大半を新しいことに使うことができる。そしてもちろん、大学院は、そのことを万人に明らかにするために「学校」と呼ばれている。まぁ、実際のところ、どんな仕事も何パーセントかは学校の要素があるのだけれど。
ベンチャービジネスのためのアイディアを得るための適切な環境というのは必ずしも大学だけではない。適切な環境というのは、学校の要素が多い場所でなければならないということを言いたいんだ。
君たちが新しい技術にふれる機会を望む理由は明白だが、君たちが他の人を必要とするのはなぜなんだろう?自分一人で新しいアイディアを思いつくことができないのだろうか?経験から言わせてもらえば、それはできない。アインシュタインでさえ、自分のアイディアを投げかける人を必要としていた。アイディアは、それを正しい種類の人々に説明する過程において発展していくものなんだ。君たちにはそんな抵抗が必要だ。それはまさに彫刻をする人に木の抵抗が必要になるのと同じなんだ。
これが一つの理由となっていて、Y Combinatorはただ一人の創業者しかいないベンチャービジネスには投資しないという規則を持っている。実質、成功している企業はどこも少なくとも二人の創業者によって興されている。そして、ベンチャービジネスの創業者は非常なプレッシャーの下で働かなければならないので、創業者たちが友達であることは非常に重要なことになる。
このエッセーを書いてみるまで気づかなかったのだが、それは女性のベンチャービジネス起業家が非常に少ない理由を説明するのに役立つかもしれない。ネットで読んだ(だからそれは正しいに違いない)のだが、ベンチャーキャピタルの支援を受けたベンチャービジネスの1.7パーセントしか女性に起こされたものではないということだった。女性のハッカーの割合は小さいが、そんなに小さいわけではない。では、なぜ食い違いが起きるのだろうか?
成功したベンチャービジネスがすでに友達の複数の創業者がいる傾向にあることがわかれば、一つの可能性のある説明が浮かんでくる。親友というのは同性であることが多く、そしてある集団がある母集団の中で少数派であれば、その集団の成員通しの組というのは二乗の割合で少数派だということになる。[1]【注1】
いたずら書き
これらの共同設立者の集団が共同で行っていることは、ただ座って考えを思いつこうとしているよりも複雑なことをしている。最も生産的なやり方は、共同-単独-共同という一種のサンドイッチだと思う。まずは共同で、ある困難な問題について話し合う。もしかすると、解決策にはたどり着かないかもしれない。そうしてから、次の朝に、君たちのうちの一人がその問題を解決する方法についてのアイディアをシャワーを浴びて思いつく。そいつは走っていって、しきりに他のメンバーに伝えたがる。そして共同で、その妙案を現実のものとする。
シャワーを浴びている時に何が起こるのか?私には、アイディアが頭に思い浮かんできたように思える。だが、それ以上のことを言うことができるだろうか?
シャワーを浴びることは、瞑想の一形態のようなものだ。油断なく警戒しているが、自分たちの気を散らすようなものは何もない。それは、精神が自由にさまよい、そして新しいアイディアにぶつかるような状況にいるようなものなのだろう。
精神がさまようときに、何が起きているのか?それはいたずら書きに似ているかもしれない。ほとんどの人はいたずら書きをする特徴的な方法を持っている。この癖は無意識的なものだが、ランダムではない。絵を描くことを学び始めてから、私は自分が書くいたずら書きが変わったことに気づいた。実生活を題材にして絵を描いているかのようにしていたずら書きをし始めたんだ。そうしたいたずら書きは絵の原子ではあるが、ランダムに配置されたものなのだ。[2]
ひょっとすると、精神をさまよわせることはアイディアを基にしていたずら書きをするのに似ているのかもしれない。仕事の中で身につけた精神的な身振りをみな持っていて、注意を払っていないときには、同じ身振りをし続けるんだ。けれど、幾分ランダムに。要するに、ランダムな引数を指定して同じ関数を呼び出すってことだ。それが譬えだ。つまり精神をさまよわせるということは、間違えた種類の引数を指定して呼び出した関数みたいなものだということだ。
好都合なことに、ちょうどこの部分を書いていたときに、私は疑問に思った。プログラミング言語における比喩を用いることが役立つのだろうか、と。私にはわからなかった。このことについて考える時間がなかったんだ。けれどその比喩は、私が思考の癖で意味していることの好例になっているという理由で、都合の良い比喩になっている。私は多くの時間を言語のデザインについて考えることに当てていて、常に「プログラミング言語においてxは役立つだろうか」と問いかけるという私の癖が、この比喩でも引き合いに出されているからだ。
いたずら書きのように新しいアイディアが生じるのであれば、このことが何かアイディアを思いつく前にしばらく何事かに取り組まなければならない理由を説明するだろう。ある分野のエキスパートになるまではアイディアを判断できないというだけじゃあないんだ。アイディアを生み出すことさえできないんだ。なぜなら、まだ引き合いにする思考の癖を一切持っていないからだ。
もちろん、ある分野で引き合いに出す思考の癖は、その分野で取り組んだことから生じるものでなければならないわけではない。実際の所、そうした思考の癖は取り組んでいる分野から生じたものではない方が、よりよいものであることが多い。君たちは素晴らしいアイディアを探しているだけではなく、素晴らしくかつ新しいアイディアを探していて、関連性の薄い分野からの材料を混ぜ合わせた方がそうした素晴らしくかつ新しいアイディアを生み出すより良い機会に恵まれるものだからだ。ハッカーとして、我々の思考の癖の一つに「xをオープンソースにできるだろうか?」と問うことがある。例えば、「オープンソースのオペレーティングシステムを作ってみたらどうだろう」というような問いだ。これはよいアイディアかもしれないが、あまり目新しいアイディアではない。それに対して、「オープンソースの事業を生み出せないか」と自問したとすると、重要なことに気づいたことになるかもしれないんだ。
ある種の仕事が他の種の仕事よりもより良い思考の癖の供給源になるのだろうか?私は、より困難な分野がより良い供給源になるのではないかと考えている。なぜなら、困難な問題に取り組むためには、強力な解決策が必要となるからだ。私は数学が比喩の供給源として素晴らしいことを知っている―十分に素晴らしいので、数学にはそのためだけでも勉強する価値があると思っているぐらいだ。関連する分野というのもまた、すばらしい供給源である。とりわけ、予期しない方法で関連がある場合にだ。みんなコンピュータサイエンスと電気工学には関連があることを知っている。しかし、まさしくみんなが知っているために、片方の分野からもう片方の分野へと何かを導入しても大きな成果は生まれない。それは何かをウィスコンシン州からミシガン州に輸入するのに似ている。それに対して、ハッカーと画家はどちらもものをつくる人々だという意味で(私が主張するように)ハッキングと絵画もまた関連があり、そしてこの新しいアイディアの供給源は事実上誰の手にも触れられたことのない領域になっているんだ。
問題
理論上は、ランダムにアイディアを組み合わせて、何を思いつくのかを見ることができる。P2Pのデートサイトを作ったらどうだろう?自動式の本があれば便利だろうか?定理を日用品に変えることができるだろうか?【注2】こんな風にアイディアをランダムに組み合わせると、ただ面白くないだけではなく、意味として不的確なものができるだろう。定理を日用品に変えることとは何を意味するのだろう?まいったよ。そのアイディアについて私が考えたことはなかった。ただ、その名前だけを考えていたんだ。【注3】
何か有益なものをこの方法で思いつくかもしれないが、私はこの方法で思いついたことはない。それは信じられないような彫刻が大理石の固まりの中に隠されていることを知っていることに似ていて、君たちはただその彫刻の部分ではない大理石を取り除けばいいということになる。それは勇気づけられる考えではある。なぜなら、その考えは答えがあることを思い出させるからだ。しかし、その考えは実際にはあまり役には立たない。なぜならば、探求する空間が途方もなく大きすぎるからだ。
よいアイディアを持つためには何らかの問題に取り組む必要があることに私は気づいている。ランダムなことから取りかかってはいけない。何らかの問題から初めて、そうしてから精神を新しいアイディアが形成されるぐらいまで遠くにさ迷わせるんだ。
ある意味で、解決策よりも問題を見いだすことの方がより困難だ。ほとんどの人々は、問題について否定し続けようとすることを好むものだ。その明白な理由というのは、問題というものがいらいらさせるからだ。それが問題というものだ!1700年の人々が自分たちの生活を今日の我々が彼らの生活を見るようにして捉えだしたところを想像してみてほしい。それは耐え難いものだったことだろう。この否定というのは非常に強力な力なので、たとえ実現可能な解決策を提示されても、人々はしばしばそうした解決策がうまくいかないだろうと信じることを好む。
私はこうした現象をスパムフィルタの問題に取り組んでいたときに見た。2002年の段階では、ほとんどの人はスパムメールを無視することを好んでおり、そしてスパムを無視することを好まない人々のほとんどが、その当時利用可能だった試行錯誤【注4】によってスパムを除去するフィルタが最善の方法だと信じることを好んでいた。【注5】
私はスパムは耐え難いものだと思い、そしてスパムを統計的に認識することができるに違いないと感じていた。結局のところ、それがその問題を解決するのに必要なものだった。私が用いたアルゴリズムは滑稽なほど単純だった。本当にその問題を解こうとする人ならそのアルゴリズムを発見したことだろう。誰も本当にその問題を解こうとしていなかったんだ。[3]
レシピを繰り返させてほしい。許容できない問題を見つけて、その問題を解決することができるに違いないと感じるんだ。単純に見えるかもしれないが、それこそが多くのベンチャービジネスのためのアイディアのレシピなんだ。
富
これまでのところ、私が述べてきたことのほとんどはアイディア一般に適用できる。ベンチャービジネスのためのアイディアにとって特別なこととは何だろうか?ベンチャービジネスのアイディアは会社にとってのアイディアであり、会社は利益を上げなければならない。そして、利益を上げる方法は人々が望む物をつくるということだ。
富は人々が望むものだ。このことを私はある種の哲学的な陳述として意図しているわけではない。そうではなくて、トートロジー【注6】として意図しているんだ。
だから、ベンチャービジネスのためのアイディアは、人々が望むもののためのアイディアということになる。よいアイディアであればどんなものでも人々が望むものじゃあないのかって?残念ながら、そうじゃあない。新しい定理というのは作り上げるとすれば素晴らしいものではあるが、そうした定理に対する大きな需要というものは存在しないんだ。有名人のゴシップを扱う雑誌に大きな需要がある一方で、富というのは民主的に定義される。よいアイディアと価値あるアイディアは全く同じものではないのだ。その差は個人の審美眼によるものなんだ。
しかし、価値あるアイディアというのは非常によいアイディアに近い。とりわけ科学技術の分野では。よいアイディアと価値あるアイディアというのは非常に似ているので、最後の段階で立ち止まって「このアイディアのために人々はお金を払うだろうか?」と問いかける限りは、仕事の目的がよいアイディアを発見することであるかのようにして日々の仕事を切り抜けることができると思う。
人々が望むものを生み出す一つの方法は、人々が現在使用しているもので、めちゃめちゃになっているものに注目するという方法がある。出会い系サイトは申し分のない例だ。出会い系サイトには何百万人ものユーザーがいるので、出会い系サイトは人々が望む有望なものであるに違いないことになるからだ。だが、出会い系サイトはひどいものだ。出会い系サイトはまるで「悪い方がよい」というアプローチ【注7】を用いているかのようだが、最初の段階で止まって後の改善をマーケティング担当者に任せてしまっているようだ。
もちろん、平均的なコンピュータユーザーの生活における一番明白な破綻はWindowsそれ自体だ。しかし、これは特殊なケースだ。独占企業を正面攻撃を挑んでも、倒すことはできない。Windowsを打倒することはできるし、そうなるだろうが、それは人々によりよいデスクトップOSを提供することによってではない。Windowsを打倒する方法は既存の問題の上位集合として再定義するということだ。問題は、「どんなOSをデスクトップコンピュータで人々は用いるべきなのか?」ということではなく、「どのようにして人々はアプリケーションを用いるのか?」ということなのだ。そうした問いに対する、デスクトップコンピュータとは関わりさえない答えがいくつかあるんだ。
みんなGoogleがこの問題を解くと考えているが、この問題は非常に難解な問題であり、難解であるためにGoogleほど大きな会社は誤った考えをするだろう。Windowsを打倒する会社―もっと正確に言えば、Windowsを継承するもの―は、ある小さなベンチャービジネスから生じる見込みは五分五分以上だと考えている。
もう一つの典型的な人々が望むものを作る方法は、贅沢品に注目し、それを日用品にするというものだ。高くても人々が欲しがるに違いないものが存在する。そして、それは廉価にしようと挑戦しなければ劇的に安くすることができない非常に希少な製品なんだ。
これがヘンリー・フォードの計画だった。フォードはそれまで高級品だった車を日用品にした。しかし、そのアイディアはヘンリー・フォードよりもずっと古いものだ。水車場は力学的な力を贅沢品から日用品へと変えた。そして、水車場はローマ帝国の時代から用いられていた。議論の余地があるが、牧畜は贅沢を日常のものへと変えた。【注8】
安くすれば、その商品をもっと多く売ることができる。しかし、もしある商品を格段に安くすれば、しばしば質的な変化を手にすることになる。なぜならば、人々はそれを違った方法で用い始めるようになるからだ。たとえば、いったんほとんどの人が自分専用のコンピュータを持つことができるぐらい安くコンピュータがなると、コンピュータをコミュニケーションの装置として用いることができるようになった。
何かを格段に安くするためには、問題を再定義しなければならないことが多い。T型フォード【注9】はそれまでの車が持っていたすべての特徴を備えていたわけではない。例えば、T型フォードは黒しかなかった。しかし、T型フォードは人々が一番気にかけていた問題を解決した。その問題というのは、ある場所からある場所へと移動したいというものだ。
マイケル・ラビン【注10】から学んだ私が知る中で最も有益な知的習慣の一つは、ある問題を解決する一番の方法はしばしばその問題を再定義することだ、というものだ。多くの人が意識的に気づくことなくこのノウハウを用いているが、ラビンは目を見張るほどはっきりとそう述べている。大きな素数が必要だって?それはもとがかかるなぁ。だから、10のマイナス100乗の確率【注11】で素数ではない大きな数をあげるというのはどうだろうか?それで間に合うかな?ええと、おそらくは。私が言いたいのは、正直に素数を求めていくことの方がこのようにやっていくよりも、素数を求める確率が低いのではないかということだ。
問題を再定義することは実入りがよい発見的な方法である。とりわけ競合社がいる場合には。なぜならば、硬直した考えを持った人々にとって再定義された問題を理解することは非常に困難だからだ。問題を再定義した人々は明瞭な視界の中で動くことができるが、硬直した考えを持つ人々は再定義したことにより生じる危険を認識していない。私たちのことを案じることはない。私たちは検索という問題に取り組んでいるだけだ。「一つのことに取り組み、それを上手にやる」というのが私たちのモットーなのだ、というように。【注12】
安くすることは、実際にはより一般的なノウハウの部分集合だ。つまり、もっと簡単にできるようにするということだ。長い間、その部分集合はほとんど簡単にするというものだったのだが、我々が作り上げるものは非常に複雑になってきたので、急速に成長してきている別な部分集合がある。より簡単に使えるようにするというものだ。
この領域は改善の余地が非常に多い。技術について言えるようになりたいことというのは、その技術が適切に作動するということだ。そんな風に言えることがどのくらいあるだろうか?
簡素にするためには努力が必要だ―非凡な創造的才能が必要とすら言える。平均的なプログラマーはほとんど故意にひどいUI【注13】にしているように思える。数週間前に私は母の家にあるストーブを使おうとした。そのストーブは新しく、ノブの代わりにボタンとLEDディスプレイがあった。ストーブをつけるだろうと思われるいくつかのボタンを押してみたのだけれど、そのストーブがなんて反応したかわかるかい?LEDディスプレイに「ERR」とだけ表示さえたんだ。「Error」ですらなく、ただ「ERR」とだけだ。ストーブを使う人にただ「ERR」とだけかえしてはいけない。エラーが起きないようにUIをデザインすべきだ。このストーブをデザインした頑固者だってそうしたUIを思いつく際に考える同じ材料、つまり古いUI、を持っていた。ノブを回して温度を設定して、別のノブでタイマーをセットする。そのUIのどこが悪かったのだろうか?それでも実際にうまくいっていたじゃないか。
平均的なエンジニアにとって、より多くの選択肢というのは首を吊るためのロープが増えることを意味するようだ。だから、ベンチャービジネスを始めたいというのなら、大企業によって生み出された既存のほぼいかなる技術に注目したとしても、もっと簡単に使う方法を生み出すことができると考えていい。
出口のための計画
ベンチャービジネスにとっての成功とはほとんど買収されることと等しい。ある種の出口の戦略が必要となる。理由は、かなりの価値になりそうなストックオプションを与えずに非常に頭の切れる人々を働かせることができないからだ。そのことは買収されるか、あるいは株式を公開することを意味する。そして、株式を上場するベンチャービジネスの数はとても小さいんだ。
成功が買収されることを意味するのであれば、買収されることを意識的な目標とすべきなのだろうか?月並みな答えは「買収されることを目標とすべきではない」だった。つまり、巨大な株式会社を作るふりをすべきであって、買収の申し出を受けたら驚いた振りををするべきだというんだ。えぇっ、私どもの会社を買収したいですって?えぇと、正当な金額を提示していただければ考えてみます、というように。
私はこうしたことが変わりつつあるように考えている。98%がた成功が買収されることを意味しているのであれば、どうしてそれを認めてしまわないのだろうか?98%がた大企業に買収されることを見込んで製品開発をしているのであれば、買収されることを自分たちの課題と考えればいいのではないだろうか?このアプローチの利点の一つは、そのアプローチがもう一つのアイディアの供給源を与えてくれることだ。つまり大企業を見て、大企業がこれから何を行うかを考えて、それを自分たちで行うんだ。たとえ、大企業が今後行うことをすでに知っているとしても、君たちの方がおそらくはやくできるだろう。
ただ、複数の会社が欲しがるであろう物をつくるようにしよう。Windowsを修正してはならない。なぜならば、潜在的な買収先がMicrosoftしかおらず、ただ一つの買収先しかなければ、買収する側には急いで買収する必要がないからだ。君たちの会社を買収する代わりに、そうした大企業はゆっくりと時間をかけて、君たちの技術をコピーすることができるんだ。市場価格で買収されたいのであれば、競争がある分野に取り組もうようにしよう。
ますます多くのベンチャービジネスが買収されることを見込んで製品開発するために作られているのであれば、そのことは独占に対する対抗勢力ということになる。一度ある種の技術が独占に絡みとられてしまえば、その技術はベンチャービジネスの速度の代わりに、大企業の速度でしか発展しないことになる。それに対して、もう片方の選択肢【注14】では特別な速度で技術が発展していく。自由市場は独占を損害と解釈し、自由市場の外にある経路として解釈するのだ。
ウォズの方法
ベンチャービジネスのためのアイディアを生み出すもっとも生産的な方法は、あり得ないぐらいに健全なものでもある。つまり、偶然によってアイディアを生み出すというものだ。いかにして有名なベンチャービジネスが始まったのかを見てみれば、多くのベンチャービジネスは当初はベンチャービジネスになろうとはしていなかったことがわかる。ロータス【注15】はミッチ・ケイパー【注16】が友人のためにつくったプログラムから始まった。アップルが始まったのは、スティーブ・ウォズニアックがマイクロコンピュータを作りたくて、ウォズニアックを雇っていたヒューレット・パッカードがウォズニアックにマイクロコンピュータを作る仕事をさせなかったからだった。Yahooはデイビッド・ファイロの個人的なリンク集から始まった。
これだけがベンチャービジネスを始める唯一の方法ではない。座って、意識的にこれから設立する会社のためのアイディアを思いつくことだってできる。私たちはそうやった。しかし、時価総額を総合して比較すれば、自分のためにものを作るモデルの方が、より成果が多いだろう。その方法は、間違いなくベンチャービジネスのためのアイディアを思いつく最も楽しい方法に違いないからだ。ベンチャービジネスは会社を始めることに決める前からすでに友人関係にある複数の創業者を持っているのだから、かなり驚くべき結論として、ベンチャービジネスのためのアイディアを生み出す一番の方法はハッカーが楽しみのために行うことをすることということになる。つまりその一番の方法は、自分の友人と一緒に面白いハックを即席で作り上げるということになる。
この考えはある種の保守的な慣習を侵害しているように思える。けど、たしかにこの考えは成り立つんだ。「100万ドルのアイディア」を手にする一番の方法は、もっと正確に言えばハッカーが楽しんでやっていることを単にするということになる。
注
- [1] – この現象は、現在様々な禁じられた主義のせいだとされている多くの食い違いについて説明しているのかもしれない。数学によって説明できることを悪意に捉えてはならない。
- [2] – 古典的な抽象表現主義【注17】の絵画の多くはこの種のいたずら書きである。画家は生活から同じ癖を用いて描くように訓練を受けるが、それらの癖が何ものも表さないように用いるのだ。このことは、そのような絵画が(わずかながら)ランダムに配置された印よりも面白いのかを説明している。
- [3] – Bill Yerazunisもこの問題を解いていたが、Bill Yerazunisがその解法を思いついたのは別な道筋をたどってだった。Billは一般的な目的のファイルを分類するアプリケーションを作り出し、それがあまりにも良くできていたので、スパムにも適用できたのだった。
訳注
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注1 – つまり、母集団→ハッカー/ある集団→女性のハッカー/成員通しの組→複数の女性のハッカー。
関連すると思われるサイトがあったので紹介。女性コンピュータエンジニアが少ない理由 - 注2 – Google・ベイジアンフィルタのことを指していると思われる
- 注3 – ベイジアンフィルタを考え出したのは、ベイズの定理を日用的なものに変えようとしたのがきっかけではなく、結果的にベイズの定理を利用したフィルタ方式を考案してその名前を付けたということ…だと思われます。別な解釈を思いついた方はお教えください(__)
- 注4 – heuristicの訳語として採用。意味は、「ある問題を解決する際に、必ずしも成功するとは限らないが、うまくいけば解決に要する時間や手間を減少することができるような手続や方法をヒューリスティックスという」こと
- 注5 – 2002年当時はPaul Grahamが提唱するベイズの定理をアルゴリズムとして用いたベイジアンフィルタが主流ではなく、ヒューリスティクなアルゴリズムを採用したフィルタが主流だった。だが、現在の状況を踏まえてみると、ヒューリスティクなフィルタはベイジアンフィルタの利便性と比較すると非常に耐え難いものだったということが述べたいのだと思われる
- 注6 – 同語反復命題ともいう。恒真命題と同じ意味で使われることが多い。ある種の命題(記述文)は、言語外の世界と照合することなしに、文字づらの上から真となることができる。例えば〈父親は男である〉〈地球は太陽よりも小さいか、小さくないかのどちらかだ〉〈もしソクラテスが哲学者でありかつソクラテスが刑死したなら、刑死した哲学者が存在する〉等である。
- 注7 – デザインの「悪い方がよい」原則参照
- 注8 – pastoralismの訳語がはっきりとしません。何かsuggestionがあればお願いいたします(__)
-
注9 – 日本大百科事典によれば、
ヘンリー・フォードが自動車生産を始めた当時、自動車はまだ金持ちのおもちゃにすぎなかった。それを文字どおり大衆の足にするためには、徹底した大量生産と、それによる価格の大幅引下げが必要であった。1908年、この要請にこたえてつくられたのがフォードT型車である。それはオートメーションの先駆となった「フォードシステム」を確立し、大量生産が可能になったことによって生まれた大衆車である。
- 注10 – WikiPediaによると、有名なコンピュータサイエンスの研究者とのこと
- 注11 – Thanks to Naoya_tさん
- 注12 – Googleのことを述べているのだと考えられる
- 注13 – 「ユーザーインターフェース」のこと。
- 注14 – 「ベンチャービジネスが技術を非常に速いペースで開発し、その成果を大企業が買収という形で取り込む」という選択肢
- 注15 – 表計算ソフトのLotus123をつくった会社
- 注16 – 表計算ソフトのロータス123を作った人物。オープンソース会の重鎮らしい
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注17 – 世界大百科事典によれば、
1940年代から50年代にかけて,アメリカで展開された一群の抽象芸術のこと。代表的作家はゴーキー,デ・クーニング,ホフマン Hans Hofmann(1880‐1966),ゴットリーブ Adolph Gottlieb(1903‐74),マザーウェル Robert Motherwell(1915‐91),ポロック,ガストン Philip Guston(1913‐80),クライン Franz Kline(1910‐62),スティル Clyfford Still(1904‐80),ニューマン BarnettNewman(1905‐70),ロスコら。
作家により様式はさまざまだが,全体として抽象的な様式によりながらも感情や内面性・精神性などを表現しようとする試みととらえることができ,はじめてのアメリカ独自の美術といいうる。ポロックのように画面のなかに入りこんで描くものをとくにアクション・ペインティングとよぶ。また,この時期,ニューヨークで抽象表現主義作家を中核に形成されたグループを〈ニューヨーク派〉という。抽象表現主義は50年代に入ると,巨大なキャンバスと白黒の絵具という二大特徴を明確にし,スティルの大きな影響下に一大流派を形づくり,ロスコやニューマンらによって,のちの色面絵画 colorfield painting への道をも用意した。
広義には,アメリカの抽象表現主義とほぼ時を同じくしてヨーロッパ,とくにフランスで現れた類似の動向をも指す。これは,アンフォルメル,抒情的抽象,タシスム Tachisme,熱い抽象などとさまざまによばれた。日本では,50年代後半から,フランスのアンフォルメルが導入されて一時代を画したため,アンフォルメルの呼称が一般化した。しかし,たとえば斎藤義重のような作家は,アンフォルメルをむしろはっきり〈抽象・表現〉という言葉でとらえていた。