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Sexyな問いに触れられないのは残念かもしれない | kazu634 | 2007-11-25 |
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日本の公立小学校の現状 | 防衛省OB太田述正の日本はアメリカの属国だで、ある小学校のクラスで行われている茶番劇の話がされていました。そのクラスは能力別の授業をしていて、できる子たちのクラスではほとんどの子供がすでに塾で分数を習っていて、建前上「はじめて」習うことになる分数を保護者たちの前で、あたかも「はじめて」教えてもらったことであるかのようにふるまっている…というのが文章の趣旨だと思われます。
先生は、分数を知らない生徒を対象にした授業を行うこととされているのでしょう。
そうなると、その日の授業の三分の二の時間は、多数の生徒にとっては時間の空費だ、ということにならざるをえません。
確かに、算数の授業としてはそうなのですが、集団即興劇としては決して時間の空費ではない、と先生も生徒(の多数)も考えているのでしょう。
いささか極端に言えば、日本の、とりわけ大都会の小学校は、後半の三年間にもなると、勉強は塾に丸投げし、社会性を身につけさせる「だけ」の場になってしまっている、ということです。
問題は、塾に行く生徒と行かない(行けない)生徒の間で極端に学力の差が生じる一方で、生徒全員が過剰に社会性を身につけさせられている、という点です。
これでは、日本人全体の知的水準の低下と所得格差の拡大は避けられず、他方で「過剰に」「日本人としての」社会性を身につけていないところの外国人が日本で働くことを一層困難にし、このこともやはり日本の社会の活力の低下を招くことでしょう。
こんなことが述べられているわけですが、やっぱりつね日頃から面白いもの、興味を引くものに触れることがないと、人間ダメになっていくんじゃないのかなと感じます(いや、だからといって、日本の教育かくあるべし何て言うつもりはないけど)。こういう茶番劇なんかの背後には、自分の仕事をつくるで書かれている「こんなもんで」という意識があるような気がするから。
「こんなもんでいい」と思いながらつくられた物は、それを手にする人の存在を否定する。とくに幼児期に、こうしたとげに囲まれて育つことは、人の成長にどんなダメージを与えるだろう。大人でも同じだ。人々が自分の仕事を通して、自分たち自身を傷つけ、目に見えないボディーブローを効かせ合うような悪循環が、長く重ねられている気がしてならない。
こうした意識に囲まれて育っていけば、「いいもの」と「わるいもの」の区別ができなくなってしまうのではないかなと思う。相対主義みたいなのがいまは流行しているけれども、それでもセンスやtasteには厳然とした差があるのだと思うのです。「こんなもんで」に囲まれて育った子供たちが真剣に仕事に向き合う大人に出会ったときにどうなるのか、その時が心配だ。
有名なプログラマーのShiroさんはこんなことを言ってます。
自分(達)のやっていることが学校の中だけの価値基準で判断されることに強く反発していたのは覚えている。「しょせん高校の部活動、 3年間楽しんで、卒業したら懐かしい想い出」、そういうのがすごく嫌だった。未熟ではあっても、それが「大人」が本気でやるような「本物の仕事」に連続的に接続しているものであって欲しかった。高校生としての物差しではなく、プロの仕事と同じ物差しで見てほしいと思っていた。それがどれだけ不遜な考えだったかはその後思い知ることとなるのだけれど、たとえそれを知っていたとしても、「高校生としての評価、70点」よりは「実世界での評価、0.01点」を望んでいただろうと思う。
でもPaulの理屈によれば、それこそがNerdの特質なのではないか。特定集団内の相対的人気度ではなく、外にある問題を自分がどれだけ解けるかという絶対的な尺度にこそ価値を見出す、っていう。
「外にある非常にsexyな問題」と「どうでもいい問題」の二つが存在するとして、常日頃触れるのが「どうでもいい問題」だとすると、不幸なことかもしれないと思う。少なくとも自分はそんなのには耐えられない。そんなことを思った。
- 参考