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日本英文学会 1日目 | kazu634 | 2006-05-20 |
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無事に八事駅に着き、目の前には中京大学がありました。ちょっと早くついたので、周囲をぶらついてから、お目当てのシンポジウムの会場に。自分が行ったシンポジウムは「「モダニズム」【注1】という用語を「大戦間の文学」と捉え直してみると、
- これまでは捉えられなかったものが捉えられるようになる
- 同時に、そのように捉えることの弊害も生じる
ということで、この二点について話し合うということで、4人の先生方が発表をなさいました。
基本的に精神分析の話(ラカンとか、フロイトとか)などが出てきたために、ちょっと話がフォローできなかったのが辛いところでした。
2人目の先生が発表を終わった段階で、自分は一次シンポジウムの会場を離れ、興味のある発表を聴きに行きました。ヘミングウェイのMen at Warという戦争物アンソロジーの中の”Tsushima”(要は日露戦争の挿話)とThe Old Man and the Sea(邦題:『老人と海』)の類似性から、ヘミングウェイ【注2】作品には日本的な要素があるのではないか…というのが発表の趣旨のようでした。とても独創的で面白かったのですが、ある年配の先生によって最大の根拠とされる部分で誤解をしていると指摘をされていました。ちょっとかわいそうでした。独創的なだけに惜しい気がしました。自分もあんな風に指摘されないように勉強しなければ…
それが終わった後、再度シンポジウムの会場へ。途中から戻ったために議論について行けず(..;)でも、とりあえずその場にへばりついていました。
日本英文学会を見に行って思ったことは、やはり発表の構成や聞かせ方は十人十色で、大学の先生をやっている人だからと行って必ずしも発表や考えが面白いとは限らないということがわかりました。大抵の先生の発表よりは、うちのI先生の方が何倍もわかりやすく明晰だなぁ…というのが印象です。近くにいるから全くわからなかったのですが、I先生の凄さに改めて気づきました。
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– ブリタニカ小項目時点によれば:
一般的には伝統主義に対する近代主義や現代主義を意味するが,狭義には宗教および芸術の分野における用語。宗教の分野では,近代科学の進歩によって伝統的な教義の根本的書き換えが要請されるという信念に基づくすべての見解を含んでいる。プロテスタントでは広く自由主義的な傾向や運動をさすが,狭義には19世紀に始った科学主義によるローマ・カトリック教会の改革運動(→近代主義)に限定される。芸術分野では広義には芸術理論,表現様式などにおける「現代ぶり」をすべて含む。18世紀に古代文学に対して現代文学を尊重した人々がモダニストと呼ばれたのもその一例。狭義には第1次世界大戦から1930年代にかけて勃興したモダン・アートの芸術運動をさし,フォービスム,表現主義,キュビスム,ダダ,シュールレアリスムなどが代表的なもの。文学では象徴主義の流れをくむ純粋詩,心理主義の小説などがそれと目された。
となるが、ここでは「1930年代の文学作品」という荒い理解でかまわないのだと思う。ただ、シンポジウムでは、「モダニズム」という語の定義自体が研究者の間で様々だということが言及されていた。
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『日本大百科事典』によれば、
(1899―1961)20世紀アメリカの代表的小説家。7月21日シカゴ郊外の町オーク・パークに生まれた。医師である父の釣りと狩猟の野外趣味と、音楽・絵画をよくした母の芸術的才能を受け継いだ。高校卒業後、大新聞『カンザス・シティ・スター』紙の記者となり、つねに事件の現場に居合わせようとする生き方をこのときから示し、同時にむだのない文章を学ぶ有益な機会を得た。1918年、赤十字要員に応募して第一次世界大戦に参加、イタリア戦線で重傷を負った。ヘミングウェイの人生観を決定的に変える死の体験であった。ミラノの病院に入院、看護婦アグネス・フォン・クロウスキーと恋愛し、これらの経験がのちに『武器よさらば』(1929)の題材となった。19年に帰国、戦傷による不眠症に悩まされながら創作を始め、トロント市に出て新聞記者を勤めたあと、シカゴで作家S・アンダーソンと知り合い影響を受けた。
1921年、8歳年上のエリザベス・ハドリー・リチャードソンと結婚、『トロント・スター』紙特派員としてパリに赴き、ギリシア・トルコ戦争などの報道にあたった。その間パウンド、スタイン、ジョイスらに接して当時のモダニズム文学に触れながら文学修業をした。個人的体験に基づいて簡潔な真実の文章を書く修練を重ね、のちに多くの作家に影響を及ぼしたいわゆるハードボイルドの文体をつくりあげた。23年『三つの短編と詩10編』を処女出版し、翌年に小品集『われらの時代に』(パリ版)を発表、これに他の短編を加えた『われらの時代に』(1925、ニューヨーク版)を出した。暴力的な世界で成長する作者の分身的主人公の体験を鮮明かつ暗示的に描いた作品群を中心としている。26年、アンダーソンとスタインを風刺した『春の奔流』のあと、いわゆる「失われた世代(ロスト・ジエネレーシヨン)」の生態と精神を活写した長編『日はまた昇る』を発表、一躍世に認められた。27年ハドリーと離婚、『ボーグ』誌記者ポーリン・プファイファーと結婚、翌年フロリダ半島先端の島キー・ウェストに居を定め、『武器よさらば』を完成し、これによって作家的地位を確立した。
ヘミングウェイは、パリ時代から親しんでいたスペインの闘牛に死の悲劇的儀式と行動の規範をみいだし、その該博な知識と死の哲学を優れた闘牛案内書『午後の死』(1932)にまとめた。アメリカでもメキシコ湾流の大魚釣り、西部山岳の狩猟に打ち込み、アフリカの猛獣狩りにも出かけ、狩猟紀行的小説『アフリカの緑の丘』(1935)を書いた。このあともほとんど生涯にわたって野性的行動人としてアメリカ的文化英雄であり続けた。
不況下、社会的問題に強い関心が向けられた1930年代という時代に、反政治的個人的関心を追求していたヘミングウェイも、36年スペイン内戦が勃発(ぼつぱつ)すると反ファシズムの立場から政府軍に資金を援助し、通信社の特派員として内乱を報道し、記録映画『スペインの大地』の製作に協力するなど積極的な行動をみせた。個人主義的姿勢からの一定の脱却は、貧富の対立のなかで協調に目覚める一船長を描いた『持つと持たぬと』(1937)に未消化な形で表れたが、スペイン内戦を背景とした『誰(た)がために鐘は鳴る』(1940)ではより鮮明に表明されている。『第五列』は戦乱のマドリードで37年に書かれた同傾向の戯曲である。
1940年ポーリンと離婚、作家マーサ・ゲルホーンと結婚、キューバのハバナ近郊に転居した。第二次大戦中は私有船を改装してドイツ潜水艦の探索にあたるなどしたが、44年に従軍記者としてヨーロッパに渡り、このとき『タイム』誌記者メアリー・ウェルシュと知り合い、マーサと離婚、46年に結婚した。戦後、イタリアを舞台に初老の陸軍大佐の愛と死を描いた『河を渡って木立の中へ』(1950)を発表したが不評。しかし次作『老人と海』(1952)では、老漁夫の孤独な闘いを通して「打ちのめされても敗れない」人間の尊厳を描き上げ、これによってピュリッツァー賞と54年度ノーベル文学賞を受賞した。54年アフリカ旅行中に二度の飛行機事故で重傷を負う。60年アイダホ州のケチャムに移住したが、この前後から長年の不摂生とたび重なる負傷によって健康を損ね、強度の神経衰弱に陥り、再三の三の自殺未遂のあと、61年7月2日朝、愛用の猟銃で自殺し、世界中を驚かせた。
ヘミングウェイは短編の名手で『われらの時代に』のほかに短編集として『女のいない男たち』(1927)、『勝者よ、何も取るな』(1933)があり、『第五列と最初の49短編』(1938)にほぼ集大成されている。『殺し屋』『キリマンジャロの雪』『フランシス・マコーマーの短い幸福な生涯』などが代表作。
遺作として、パリ時代の回想記『移動祝祭日』(1964)、キューバ時代の作者自身をモデルにした『海流の中の島々』(1970)、若い作家夫妻に同性愛の女性を絡ませた『エデンの園』(1986)がある。ほかに大冊の『書簡集』(1981)、88編の詩を収めた『詩集』(1979)も出版されている。