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主観的なものの見方について | kazu634 | 2005-08-07 | /2005/08/07/_74/ |
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O田くんの所で哲学的な話が掲載されていたので、トラックバックの練習がてらコメントしてみようかと思いました。
O田 wrote:
この思いこみを哲学者のフッサールは現信憑とよんだ。 また、思いこみから脱却することをエポケーと言う。 正しい認識は、複数人の思いこみの共有によって成り立つのだ。
何が言いたいかと言うと、自分が正しいとか間違っているとか思っていることが、実は単なる思いこみで、他の人にとっては全く逆の意味で取られてしまうかもしれない。 そう言った間違いを防ぐためには、相手を知り、己を知ること、そして考えを共有することが大事なんだってこと!
こうした考えの背景には、ニーチェなどの思想の影響が伺える。というのも、ニーチェは神というヨーロッパ的な世界観からすれば絶対的とされる存在を否定しているからだ。何が正しいのかという絶対的な価値基準は存在しない、ということをニーチェらによる神の否定は含意していると考えることができる。こうしたことから、ニーチェは『道徳の系譜学』などという書物で系譜学というものを始める。絶対的に正しい価値観が存在しないという立場に立った以上、「道徳とはなぜ現在の形になっているのか?」という疑問が自然に生じ、それに答えようと試みたのである。
また、こうしたフッサール的な世界観というものは、当時の科学の危機というものとも大きな影響を受けている。数学に置いては、数学の基礎をなす整数論に矛盾が見つかった。物理学に置いては、アインシュタインが絶対とされていたニュートン力学よりもよりよい説明を与えた。数学や物理といった、永遠不滅と考えられていた学問の基礎がグラグラし始めた時代なのである。
文学に置いても、同時代的に全知全能の語り手(omniscent narrator)から情報を制約された語り手へと、語り手が変化していく過渡期にあった。つまり、三人称で何でも知っている語り手から、知っている情報の限られた、あるいは非常にバイアスのかかった解釈を施す語り手が物語るという形式の物語が生まれつつあったのである。これは非常に重要な動きではあったが、人間が実際に行っている語るという行為により似せた小説というものが生み出されつつあった、ということなのだろうか。
あぁ、後、O田くんが書いていることは談話分析(Discourse Analysis)と呼ばれる学問領域の基本的なアプローチとされているかな。