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保坂和志の小説観とConrad kazu634 2005-09-28 /2005/09/28/_144/
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つれづれ

05.09.25:注の追加
05.09.28:『小説の自由』からの引用を追加


 梅田氏のブログで紹介されていた『小説の自由』を読んでみた。そして、保坂和志という作家の文学についての考え方をもっと知りたくなって『書きあぐねている人のための小説入門』も読んでみた。

 この二冊の本を読んで私が感じたのは、保坂和志という作家が考えている文学・小説というのは、読者の人生を相対化するものでなければならないだということだった。以下の引用も参照してほしい。

 話を戻して、「貧しい姿に身を顕わしたキリスト」という単純な論法によってマザー・テレサとそのまわりの修道女たちが行動に駆り立てられていたのだとしたら、「やられたらやり返せ」「一生忘れない」という単純な論法で犯罪を犯したり確信犯的に身を破滅させる強い私の小説世界にある論理と同じではないか、という反論があるかもしれないが、それは違う。
 前者が体系を持った言語によって肉体を鋳造しなおしたその後に訪れた言葉であるのに対して、後者は日常と地続きの言葉でしかない。後者を読む読者は自分がいまいる場所から一歩も動かずに理解することができるが、前者を受け入れるためにはこちら側の能動性が必要とされる。
 文学にはこの意識が絶対に必要だ。
 小説の想像力とは、犯罪者の内面で起こったことを逐一トレースすることではなく、現実から逃避したり息抜きしたりするための空想や妄想でもなく、日常と地続きの思考からは絶対に理解できない断絶や飛躍を持った想像力のことで、それがなければ文学なしに生きる人生が相対化されることはない。

(『小説の自由』 pp263-4

したがって、「スラスラと読める」・「感動」などという小説に対する誉め言葉を非常に嫌っているようだった。なぜならばスラスラと読めるということは、平均的な読者と同じ価値観を提示し、その価値観というレールに沿って物語を進めているということであり、読者の人生を相対化することにはならない。小説というのは安易に感動を与えたり、感傷的であってはならないとかんがえているようだった。そうではなく、小説は読者が持っている価値観とは異なる価値観を提示するものでなければならないと保坂和志は述べている。【注1】

 このような小説観は私が考えていたような小説観ととても似ていたので、こうした部分が非常に印象に残った。私が専門とするConradは、船乗りだった。そして、その小説は船乗りを語り手とすることが多かった。しかも、その船乗りというのは古い時代の帆船に乗っていたという設定である。さらに Conrad自身も帆船・蒸気船に乗っていた船乗りであった。こうしたことを考えた場合、Conradの小説は当時の読者が持っていた価値観とは異なるものを提示していたはずだっただろう。帆船という蒸気船からすれば操船の困難な船に乗っていた船乗りの価値観に基づいて、物語を語っているのだから。だから Conradという作家の作品は、帆船という昔の船に乗ったことのない我々には難しいとしか思えないのではないだろうか。【注2】

 このような異なる価値観を提示するというのが小説の役割であるということは何を意味しているのだろうか?社会に対して多様性を与える役割があるのではないだろうか?このあたりについては、梅田氏のブログで紹介されていたThe Wisdom of the Crowdsを読んで考えたことを投稿するときに考えてみたいと思いますです。


  • 注1 ちなみに読売新聞の書評には次のようにまとめられていた。

    小説は、人生の諸相を映す鏡のはずである。しかし、気を付けないと「愛」や「感動」の小さな世界を作ってしまうことになる。実際、現代は箱庭のごとき作品が多いのではないか。保坂和志の考える「小説の自由」には、そのような予定調和はない。

  • 注2 Paul Grahamは「ものつくりのセンス」(“The Taste for Makers”) で「良いデザインは想像力を喚起する」(“Good design is suggestive.”)と述べている。このような船乗りの生活がどのようなものであったのかを想像させるコンラッドの小説は、とても良いものだと個人的には思う。この想像力を喚起するという要素は、異なる価値観を提示するという小説の役割と密接な関係を持つのではないだろうか?