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『おとなの小論文教室。 (河出文庫)』で気になった部分 | kazu634 | 2009-07-29T15:04:05Z |
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心からやりたいこと、好きなことを堕胎するようにして、生きている人がいるとすれば、その人が、日々、得ているものは何だろう?
逆に、心から好きな、やりたいことがあれば、生きてて面白いし、苦労もいとわないし、お金が無くても、いいオーラ、出していられるんじゃないかと思う。そしたら、自然に仲間も集まってくるんじゃないか。
これは、あくまでも私の仮説だ。いま、私は、私の人生を使って仮説を検証しているところだ。この検証には、客観的な指標はいらない。編集生活を振り返ると、人脈もスキルも、思いを込めた仕事だけが自分に残った。将来によかれと苦い薬を飲むようにした仕事は地盤沈下を興し、私の中では消えてなくなっていった。
事故をゆがめれば、世界観も歪む
内にこもる好きなことはつまんない。内にこもるのは、それ以上でもそれ以下でもない。玩具で一人遊びを続けていくようなものだから。圧倒的で不可解で憎たらしくて愛すべき他者(外側の世界)にコミットすることで、はじめて自分の世界観は育てられていくと思うし、他者と交わる行為の中でしか自分の世界も結局のところ立ち上がっていかないんじゃないか、とそんな気がするのね。
自分が好きなことが必ずどこかにあって、自分がそれにふさわしい才能を持っているっていうふうに思いこんでしまった段階から、何かこう、「他者」とのつながりを断ち切ってしまうようなところもあると思うの。
山田さんが、<「思い通り」に選べなかった道が、まっすぐに「本望」に通じている>とおっしゃったのは、逆に思い通りでなかったからこそ、世界に対して自分が”開かれた”状態になって、そこに感動が生まれたのではないかと思います。
批判する人が気づくことは、当然気づいていて、その先、相手は、なぜ、こんな間違ったことをしているのかとか、そのことが自分たちにどういう意味を持っているかとか。そしていま、欠点が目立ったり、問題がある相手を、未来に向かってどう生かすか、というビジョンが求められる。
コミュニケーションとは、自分が発したサインに対して、対象から、何らかの反応があって成立するもの。ズーニーさんが感じた消耗の裏には、私が人として認められていないという悲しみと憤りを含んでいるのではないか。