Edward Saidの World, texts, and criticsの「コンラッド―語りの表象作用」を読んで気になった部分を抜き出しています。
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コンラッドは物語の動機を強調する
物語が語られる動機―物語を語ることを何らかの方法で正当化する必要性が感じられる証拠―に、異常なほどの注意が払われている。 (P152)
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コンラッドの小説は語りの証拠固めを不可欠の要素とする
コンラッドは自分にとって常に重要なこと、つまり物語の劇的な語り方、それがどのように、またいつ語られたのかを語りかける作家であり、そのための証拠固めが全体としての小説の不可欠な部分となっているのである。(PP154-5)
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コンラッドの劇的な語りについて
興味あることに、コンラッドの小説の多くの劇的な計画は、冒険談の語り、歴史的報告、互換される伝説、熟考による回想などから成り立っている。この計画は
話し手と聞き手を内意している(ただし多くの場合話し手や聞き手はすでに存在している)し、すでに述べたように、計画を可能にする特定の状況を内意してい
たときもある。コンラッドの主用作品を通観してみれば、私たちは、『西欧の目の下に』を顕著な例外として、物語が口承により伝達されたものとして提示され
ていることを知るだろう。(P158)
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コンラッドの語りは対立する解釈を容認する
物語は、聞いたり話したりする人々の存在から始まる。コンラッドの場合、物語が一人称で語られるかどうかには関係なく、このことは通例は正しい。それらの
物語の主題は幻想的であったり、非現実的であったり、暗かったりする。つまり、本質的に見極めることがたやすくないものなら何でも主題にされる。話しの語
られ方自体によって確かめうるのは、少なくともこの程度のことである。というのも、話が通常明かすのは、この種の曖昧さの持つ正確な輪郭であるからだ。ほ
とんどの場合、曖昧さは、(ノストローモ、ジム、あるいは黒人などがそうだが)途方もない外面の輝きすらとも関わりなく、隠れた内部の恥の機能を果たす。
しかし、逆説的ながら、この種の秘密はあまりにやすやすと間違った形で暴露される傾向にある。だが、コンラッドの悪名高いほどに人を出し抜くような語りの
手法は、これらの機先を制しようと企てる。思慮深い語り手は、間違った類の解釈に予め待ったをかける語り手である。彼の語りはいつの場合も、対立する語り
を容認する姿勢を装う。(P159)
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語り手と語りの受け手について
レスコフの語りの様態を考えながら、ヴォルター・ベンヤミンは、語りの技法の成功は伝統的に、話し手と聞き手の間の共同体意識や、何か有用なものを伝達し
たいと言う欲求に依存してきたと主張している。これら二つの条件は相互依存的なものである。情報が有用なのはいつに、同じ価値体系を持つ他の人々によって
それが有用なものにされうるからであり、また価値体系が恒久化されるのはいつに、一人以上の個人がそれを信奉するからである。このことが現代ではもはや通
用しなくなったことは、ベンヤミンによれば―
歴史の世俗的な生産力を示す付随的な兆候である。その付随的現象は語りを生きた発話行為の領域からきわめて漸進的に遠ざけてきたものだが、同時に消えゆく
ものに新たな美を見て取ることを可能ならしめているものでもある。……物語の語り手は自分が語るものを体験(自分の体験か、さもなければ他の人たちによっ
て報告される体験)から手に入れる。そしてこんどは語り手はそれを、彼の話を聴いている人たちの体験と化するのである。小説家は自己を孤立させてきた。小
説の出生地は孤独な個人というトポスであって、その個人はもはや自己の最も重要な関心事の事例を与えることによって自己を表現することはできず、彼自身他
人から意見を受けず、また他人に意見を述べることもできない。小説を書くことは、人間生活の表出において、同一基準では比較できないものを極限にまで持っ
ていくことを意味する。
コンラッドの個人史は、一方では海洋生活における情報の、他方では執筆生活における情報のそれぞれ異なる地位に対して彼をひどく敏感にさせた。海洋生活で
は、労働の共同体と有用なものについての共有感覚が企図された作業にとっては必須のことであり、執筆生活では、孤独と孤独がもたらす不安定な状況があらゆ
るものを蹂躙する。かくして、コンラッドは自己の二重生活の内部に、有用な、共同体的な芸術としての物語制作から不可欠なものとされた、孤独な芸術として
の小説制作への転換の承認になるという心もとない特権を手に入れることになったのである。(pp167-9)
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ジムについて
ジムに対するマーローの寛大な態度はロマンティックな投影への傾向とまさに同じものにその根を張っていて、この傾向によってジムは、現実の航海よりも投影
的なインスピレーションの中での勇敢な航海のほうをきわめて戸惑いながらも好むのである。(p172)