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”The Age of the Essays”の翻訳(途中) | kazu634 | 2005-08-05 |
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この投稿はPaul Graham氏によるエッセー、“The Age of the Essays”を翻訳しようと試みたものである。
エッセーができてからの年月
2004年9月
高校で書かなければならなかったエッセーを覚えているかい?導入となる段落、理由を与える段落、結論。結論というのは例えば、『白鯨』【注1】に出てくるエイハブはキリストに似た人物だ、というものだ。
うーん。だから、私は別な側面を示そうと思う。つまり、エッセーとは本当はどんなもので、どのように書くのかということについて示していこうと思う。少なくとも、自分がエッセーをどのように書いているのかということについて書こうと思う。
一番明白な違い
本物のエッセーと学校で書かなければならないものとの一番明白な違いは、本物のエッセーは英文学についてだけについてのものだけではないということだ。確かに、学校は生徒達に文章の書き方を教えなければならない。しかし、一連の歴史的出来事のために作文の授業は文学研究と混ざり合ってしまっている。そのためにアメリカ合衆国中で生徒達は、少ない予算しかない野球チームがどのようにしてヤンキースと闘いうるのかとか【注2】、ファッションにおける色の役割だとか、何がよいデザートを構成するのかといったことについて書くのではなく、ディキンズ【注3】におけるシンボリズムについて書いているのである。
このことにより、作文は退屈で的はずれのように見えざるを得なくなる。誰がディキンズの作品におけるシンボリズムなんか気にするだろうか?ディキンズ本人でさえも、色や野球のことについて書かれたエッセーにずっと興味を持つはずだろう。
どうしてこのようになってしまったのだろうか?その質問に答えるためには、ほぼ1000年の時を戻る必要がある。1100年頃に、ヨーロッパはついに何世紀にも及ぶ混乱を終え一息つき始めた。一度知的好奇心という贅沢をし始めると、ヨーロッパの人々は現在我々が「古典」と呼んでいるものを再発見した。その効果は、他の太陽系から来た生物に訪ねられた時のものにとてもよく似ていた。これら初期の文明【注4】は非常に高度に洗練されていたので、それ以降の何世紀もの間、ヨーロッパの学者の主な仕事は、ほぼすべての学問領域の中で、古代ギリシア・ローマの人々が知っていたことを吸収することだった。
この期間の中で、古代の書物研究することが権威を得るようになった。書物研究が学者が行っていたことの本質のように思えた。ヨーロッパの学問に弾みがつくにつれて、古代の書物研究は重要ではなくなっていった。1350年までには、化学について学びたいと望んでいた学生は、自分の同時代でアリストテレス【注5】よりも良い教師を捜すことができるようなった。[1]しかし、学校は学問よりもゆっくりと変化した。19世紀になっても、古代の書物の研究は依然としてカリキュラムの重要な要素であった。
原注
[1] – 私が念頭に置いているのはオレーム(1325-82)【注6】だ。しかし、年代を特定するのは困難だ。理由は、ヨーロッパの人々が古代の科学を吸収するのを終えたまさにその時に学問における急激な衰えが起きたからだ。原因は1347年の疫病かもしれない。というのは、科学上の進歩は人口曲線に符合すしているからだ。
訳注
注1 – メルビルの小説。Moby Dick。1851年刊。巨大な白鯨モビー・ディックに片足を奪われたエーハブ船長は、復讐のため世界の海を巡り、ついに発見した宿敵とともに海底に沈む。善と悪の対決等、深い象徴性を秘めた叙事詩的大作。発表当時は不評だったが、1920年代以後評価が高まる。
注2 – 『マネーボール』)のことを言っているのだと考えられる。
注3 – イギリスの小説家。ビクトリア女王から貧しい庶民の子どもまでが愛読した、19世紀最大の国民的文豪であるばかりでなく、20世紀になっても各国語に翻訳されるうえに、ラジオドラマ、テレビドラマ、映画、ミュージカルなどのメディアにまで浸透している。
注4 – つまり、古代ギリシア・ローマ文明
注5 – 「万学の祖」として、その業績は広範、後世への影響はプラトンと並んで甚大である。学の全分野で今日まで用いられる術語・概念・方法の多くがアリストテレスに発する。
注6 – フランスの司教。アリストテレスを研究。経済学の著作もある。