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”The Age of the Essays”の翻訳(断片) | kazu634 | 2005-08-15 |
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この投稿はPaul Graham氏によるエッセー、“The Age of the Essays”を翻訳しようと試みた断片である。
観察
だから、予期しないものを見つけ出す能力は生まれつきのものではないに違いない。その能力は身につけることが出来るものに違いないのだ。では、どのようにして身につけるのだろうか?
ある程度まで、それは歴史を学ぶことに似ている。はじめて歴史を読んだとき、歴史は一連の名前と年号が混じり合っているものに過ぎない。何も引っかかりはしないように思える。しかし、多くを学べば学ぶほど、新しい事実を関連づけるとっかかりがますます増えていくのだ―このことが意味するのは、日常的な言い回しでの指数的な割合で知識を蓄積しているということだ。一度ノルマン人が西暦1066年にイングランドを侵略していることを覚えたら、他のノルマン人がほぼ同時期に南イタリアを征服したと聞いたとき、その話に関心を抱くことだろう。そうしたことに関心を抱くことでノルマンディーについて好奇心を持ち、三冊目に読んだ本がノルマン人は、現在フランスと呼ばれているところに住んでいる大半の人々のように、ローマ帝国が崩壊したときに流入してきた部族ではなく、4世紀後の西暦911年にやって来たヴァイキング(ノーマンとは、北方の人々のことである【注1】)だと述べたとき、注意することになる。こうしたことに注意すると、ダブリンはヴァイキングによって西暦840年代に開かれたことを覚えるのもより容易になる。こうして、二乗の割合で覚えていくことになるのである。
驚きを集めるのも同様な過程である。より多く例外的なものを見ていればいるほど、より容易に新しい例外的なものに気づけることになる。つまり、奇妙なことに年を重ねていくほどに、人生というのはもっとずっと驚きに満ちたものになっていくのだ。私が子供だったとき、大人は何でもわかっているんだ、とよく考えたものだった。私は逆に考えていたんだ。子供たちの方こそが、何でもわかっているんだ。子供たちはただ誤解しているんだ。
驚きに関していえば、富める者がますます富んでいく。しかし、(富と同じで)そうした過程を助ける心の習慣というものがあるかもしれない。質問をするという習慣を持つのはいいことだ。とりわけ、「なぜ」で始まる質問をする習慣を持つことは。しかし、3才の子供がするようなランダムなやり方で質問をしてはいけない。無限の数の質問があるけれど、《その中から》有益な質問をどのようにして見つけるのだろうか?
誤っているように思えることについて質問をすることがきわめて役に立つことを私は知っている。例えば、なぜユーモアと不幸の間に繋がりがなければならないのだろうか?なぜ好きな登場人物でさえもバナナの皮で滑って転ぶと私たちは愉快に感じるのだろうか?そこには確かにエッセーまるまる一つ分に値する驚きがあるはずだ。
誤っているように思える物事に気付きたいのであれば、ある程度の懐疑主義が役立つことに気付くだろう。私たちは自分たちが出来ることのたった1%しか達成していない、ということを私は自明の理だと思っている。こうした考えは、子供の時に頭の中にたたき込まれた「物事が現在のようになっているのは、そのようになっていなければならないからだ」という規則を打ち消すのに役立つ。例えば、このエッセーを書いている間に私が話をした人はみんな英語の授業について同じことを感じていた―彼らは全過程が的はずれのように感じていたのだ。しかし誰もその当時は、英語の授業が事実みんな間違えているのだ、と仮説を立てる勇気を持っていなかった。私たちはみんな、捉えてはいない何かがあるのだと考えていたんだ。
ただ誤っているというだけではなく、ユーモアに富んだ方法で誤っている物事に注意を払いたい、と思い始めたのではないかと思う。私はいつも、私のエッセーの草稿を読んで人が笑うのを見て、喜ぶ。しかし、なぜ喜ぶべきなのだろうか?私は良い考えを目標にしている。なぜ良い考えは愉快でなければならないのか?その繋がりは驚きであるかもしれない。驚きは私たちを笑わせ、そして驚きこそがエッセーで述べたいものなのである。
私はノートに驚いたことを書きつけている。私は実際の所、決してそのノートを読んで、エッセーのネタにするということは出来ないが、同じ考えを後になってはっきりと思い浮かべる傾向にある。だから、ノートの主な価値というのは書くことで頭に残るもの、ということになるのかもしれない。
- 注1 – ノーマン(norman)は語源をたどると、北方の人々(north man)が元々の語源だということを述べている