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単騎、千里を走る | kazu634 | 2006-02-07 | /2006/02/07/_219/ |
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もう二日ぐらい前になりますが、『単騎、千里を走る。』を観てきました。高倉健主演・チャン・イーモウ監督作品です。いや、とてもよかったです。
続きはネタバレ含みそうなので、↓をクリック♪
高倉健演じる主人公が、死に瀕した息子の代わりに中国に向かうというのが大雑把なあらすじ。息子は中国仮面舞踊の研究者で、「単騎、千里を走る」という関羽を扱った芝居をまた観に行くという約束をしていた。だが、息子は末期の肝臓ガンに冒されていた。高倉健演じる父は、息子とここ10年ぐらい疎遠になっていたが、息子との仲を修復したいと考え、中国へ赴く。だが、「単騎、千里を走る」を演じられる役者は犯罪を犯し、牢屋に入っていた。何としても「単騎、千里を走る」をビデオに収め、息子に見せたいと考えた主人公は、様々な人々を動かして、ついに「単騎、千里を走る」の撮影に成功する…というのが、ストーリーの基本ラインになるのかな。
印象的だったのは、
- 「単騎、千里を走る」を撮影した時点では息子が死んでおり、撮影する意味をなくしていたのだが、主人公は自分のために動いてくれた様々な人の気持ちに答えるために、周囲の人に息子の死を悟らせないようにし、「単騎、千里を走る」を演じるように頼む場面
- 「単騎、千里を走る」の関羽役を演じる役者の息子もまた父親との仲がうまくいっておらず、高倉健演じる主人公が自分の息子とダブらせて関わっていこうとしていき、心を開いてもらう場面
- 時間的に自分の息子が死んだのは、役者の息子と心のふれあいが果たされた頃だということがさりげなく観客に提示される部分
こうした主人公を高倉健が渋く演じているわけです。
この映画を観て強く興味を引きつけられたのは、チャン・イーモウ監督の映画の作り方でした。自分が専門とするコンラッドとの類似した点がとてもあるように感じました。例えば、
- コンラッドはポーランド人でありながら、後年イギリスに帰化し、作家としての名声を獲得する。この映画でも、主人公は全く何が話されているのかわからない中国に飛び込み、人々を動かして目的を果たす。
- コンラッドの作品は一人称の語り手が、自分の主観を前面に押し出して物語を語る。この映画も、高倉健演じる主人公の主観を通した物語が語られていると考えていいと思う。
- コンラッドの有名作である『闇の奥』・『ロード・ジム』は枠物語【注1】である。チャン・イーモウも『HERO』で枠物語を映画に移植していると捉えることができる。
というところが、自分の専門と重なって面白いと感じました。
- 注1 – 一つの物語の中に複数の物語を含む小説形式。複数の話者が次々と語る短編の集成として全編が構成されるものをさすが,話者が交替しない《千夜一夜物語》なども枠物語と呼ばれる。西洋では,この形式はルネサンス期の文学に多くみられ,口承文芸から文字文芸への移行や,俗語の散文による小説の成立を示唆するものとして文学史上注目される。その典型的なものはボッカッチョの《デカメロン》で,ペストを避けて郊外の別荘に落ちあった10人の男女が交替で司会役をつとめ,残りの9人が順次物語るという形式のもとに,教訓譚,ロマンス,滑稽譚,艶笑譚等々,多様な短編が集められている。チョーサーの《カンタベリー物語》,マルグリット・ド・ナバールの《エプタメロン》もその好例である。また,ストラパローラの《愛しき夜毎》やバジーレの《お話のお話》はこの形式によって,後世に貴重な民話の集大成をもたらした。近代にもゲーテをはじめ,ケラー,ホフマン,スティーブンソンらの作品に,この形式をとったものがあるが,代表作《カルメン》がそうであるように,とくにメリメはこれを得意とした。枠物語の形式は西欧文学にのみみられるものではなく,物語文学を持つ諸民族の文学に共通に存在するといえよう。日本でも中世の説話や御伽草子などにこの形式がみられるが,たとえば室町期の小説《三人法師》は3人の高野聖のそれぞれの発心譚によって全体が構成される,枠物語のすぐれた小品である。